田上義也氏の戦後作品

田上義也
1899年(明治32年)栃木県生まれ
早稲田大学付属早稲田工手学校から逓信省大臣官房経理課営繕係へ入省、上司に渡辺仁。
フランク・ロイド・ライトが設計する帝国ホテルのスタッフ募集広告を見て飛び込む。
帝国ホテル竣工パーティー当日、関東大震災に被災。
その後、北を目指す途中、夜行列車でバチェラー師との出会いがあり、そのまま札幌でフリーアーキテクトの第1人者となる。
北海道文化賞、北海道開発功労賞などを受賞、1991年に92歳で御逝去。

一般的に田上義也氏といえば、師事したライトからの影響が強い戦前の住宅作品がイメージされる事が多い。
しかし、その設計手法の呪縛から逃れようと、自分のスタイルを模索する姿の方にもなかなかの見所がある。
そんなあまり注目されない戦後作品も知らず知らずのうちに解体がされ始めている。
それらの戦後作品を今のうちに記録していこうと思う。

(写真 木田金次郎美術館 2010年特別展示 田上義也 北方建築の種展 展覧会パンフレットより)





・・・目次・・・ (全作品ではなく、私の興味を惹く物件)

1951年(昭和26年) 北1条教会増築・改修

1952年(昭和27年) 

1953年(昭和28年) 飯室進邸 島田邸
1954年(昭和29年)
1955年(昭和30年) 帯広厚生病院
1956年(昭和31年) 木呂子敏彦邸  阿寒湖畔小学校   更科源蔵邸 違星北斗の歌碑 北日本自動車学園 
柳田静一邸 
1957年(昭和32年) 河邨文一郎邸 金田一昌三邸  
1958年(昭和33年) 高倉新一郎邸 木村邸A 
1959年(昭和34年) 大塚氏アトリエ
1960年(昭和35年) 支笏湖ユースホステル 森吉要邸 小原邸 岩沢誠邸 北海道樺太会館 宮ヶ丘ユースホステル 鶴田邸 木村邸B 浜野真二邸 石川邸 山田小児科 小川レストラン
1961年(昭和36年) 植田邸A  植田邸B 八雲町庁舎  網走市立郷土博物館増築棟  阿部邸 星井整形外科
1962年(昭和37年) T邸
 藻岩原始林館 南条山荘   岩沢邸 多田邸 梶谷邸 橋本婦人科医院 岡本邸 カナリヤビル 東屋 北湯沢ユースホステル
1963年(昭和38年) 水原邸 中西邸 田村邸 高田邸 島邸 渡辺歯科 伏見稲荷会館
1964年(昭和39年) 旧山元邸 長嶋邸 室谷邸 藪邸 阿部アパート 真駒内幼稚園  浅野ビル 金本ビル 
1965年(昭和40年) 八雲町公民館 
  Ks邸 Kh邸 春香山の本郷新アトリエ 坂本直行邸 無意根山荘(本山スキーロッジ) 札幌市本山地区集会所  尾崎清美邸 N邸 ?邸 北海道銀行白老支店  木村勇邸  斉藤薬局 辻村邸 辻邸 塚本邸 金井省一邸 増谷邸 徳丸商会  富良野ユースホステル 万世橋 美幌ユースホステル オホーツク水族館 北郷幼稚園 南茅部水産高校  北海道農業近代化コンサルタント new
1966年(昭和41年) 坂本修三郎邸 北海道銀行美唄支店行員住宅 愛衆ビル ホテル神宮閣 豊田邸 竹田邸 乙井邸 坂田邸 徳中裕満邸 金井邸 ニセコローヤルロッジ  
 春香山展望台 光塩学園女子短期大学 虎杖浜ホテル(登別) 福祉センター眺湖荘 北の峯ロッジ
1967年(昭和42年) S邸  大山邸 旧藪邸 旧Sk邸 T邸 I邸  辻博邸  松宮邸 寺崎邸 三田邸 河井邸 多田邸 大坪築七邸 帯広市立図書館 北海道銀行洞爺クラブ 
 ホテル華の湯   標津町福祉会館 定山渓ユースホステル 高木病院 光塩学園付属幼稚園 札幌造形美術学園 透青ビル   
1968年(昭和43年) S邸 支笏湖ホテル鹿の湯  空知土地改良区事務所 くぼたビル 浅野ビル ホテルアカシヤ ライオンズ青年の家 島啓吾邸 高木耳鼻科医院 第2札幌市勤労青少年ホーム 桑園予備校
1969年(昭和44年) M邸 奥村邦教邸 月形ライオンズクラブ記念碑   栗原静江邸 青樹社ビル 豊建商ビル 工藤元邸 早川秦正邸 山中邸 柿島米太郎邸 辻邸B 上光証券取引所 麻布保育園 標津ユースホステル 
1970年(昭和45年) Ik邸  T邸(南3条)  今井健一郎邸 寿原豊邸 標津町青少年会館 工藤元邸 たかだビル 
1971年(昭和46年) 札幌冬季オリンピック・恵庭岳滑降競技場各施設
 S邸 T邸(西野) T邸(宮の森) 宍戸悟郎邸  室蘭ユースホステル  青函トンネル記念会館(福島) 三菱石油トレーニングセンター  SKビル  
1972年(昭和47年) イクサンダー大沼ユースホステル  摩周湖ユースホステル 滝沢充雄邸
 定山渓ニューグランドホテル 川村勇邸   函館友の会会館 標津川北保育園 
1973年(昭和48年) 高田孝三郎邸
 九島勝太郎邸 横井喜之助邸 渡部保夫邸 山田歯科診療所 丸紅緑ヶ丘分譲建売住宅第1期  カナリヤ本店 日高国際スキーロッジ
1974年(昭和49年) Iw氏壮瞥別荘
 ルベシベユースホステル   北海道青年会館 
1975年(昭和50年) 松原政雄邸 月寒公民館 浅野商事 東急不動産澄川建売住宅 丸紅緑ヶ丘分譲建売住宅第2期
1976年(昭和51年) 大成寺会館(当別) こぐま座 黒川邸
1977年(昭和52年) 札幌市教育文化会館
1978年(昭和53年) サロマ湖畔ユースホステル

1979年(昭和54年) 
1980年(昭和55年) 
1981年(昭和56年) 
1982年(昭和57年) 
1983年(昭和58年) 
1984年(昭和59年) 
1985年(昭和60年) 
1986年(昭和61年) 
1987年(昭和62年) 新免マンション

1988年(昭和63年) 
1989年(平成元年)  
1990年(平成2年)  
1991年(平成3年)  



1987年(昭和62年)

「新免マンション (現 KTマンション)」  建築場所 札幌市白石区北郷5条   現存

N社O氏が教えてくれた物件。
珍しいアパート建築であるようだ。
翌日、早速現地確認に向かった。

道路側に立って眺めてみた。
2階建で奥に細長い形をしており、8世帯分の玄関が見えた。
さらにその奥には、オーナー宅と思える部分が台形に張り出していた。

この物件を不動産情報で確認すると1987年の竣工ということである。
それなのに、壁面が60年代の田上チックに分割デザインされているではないか。
何とも謎な屋根形状に、しばし想像を膨らませる。
恐らくオリジナルは片流れ屋根だったはずで、後になって駐車スペースに落雪しないように壁を伸ばしたのであろう。

江別大麻にあるY邸と共通する回顧デザイン。
田上先生が昔に産んだデザインをモチーフとして、若いスタッフが20年後の建築に蘇らせているのではないか。
オーナー宅と見える奥の台形部分は、田上先生デビュー当時に多用したライト風な空間に違いない。

ここまでネタがそろっているが、ウラが取れていないので確信は持てない。
しかし、きっと間違いない。
もう、載せてしまえ。
















1978年(昭和53年)

「サロマ湖畔ユースホステル」  建築場所 常呂郡佐呂間町浜佐呂間サロマ湖畔  現存

ユースホステル人気が下降をたどる中、1978年に日本ユースホステル直営施設としては最後となったサロマ湖畔ユースホステルが建設されたという。

     
 2013年 湖畔道路から眺めた様子  宿泊棟を眺めたところ  玄関からホールに入ったところ

中央にそびえたボイラー塔の右側は男女別の宿泊棟、左側には食堂棟がひかえた外観である。
一般的によくある木造ユースホステル建築とは違い、重厚な鉄筋コンクリート造である。
しかし、屋根の見えがかりは落ち着いた木の仕上げが施されており、玄関からホールに入れば、初期ライト風ともいえそうな雰囲気に見惚れてしまう。

撮影の許可を関西出身のペアレントさんにお願いすると、「今日はアンタしかお客がおらんから、好きにしてええで!」」と、自由に撮らせていただいた。
「こんなぎょうさん金のかかったユースは全国どこ探したってあらへん。けども、お客は少ないし、修繕費もバカにならんで。雨漏りを防ぐのにブルーシートを屋根に掛けてごまかしとるんや。」と、寂しい顔のペアレントさんである。
「来年にはもう閉めよう思うとるんや。存分に写真撮ったらええで。」

     
 立派な食堂   食堂の外観 一段下がって暖炉のあるカーペット敷きの 談話室

食堂はなかなかの凝りようで、梁の架構と照明器具はライト風を狙いながらもモロを外した様子にニヤリとしてしまう。
食堂の外部は深い軒と窓の関係がロビー邸を思い起こさせ、辺りにライトお得意の花台があるのではないかと見廻したが、その期待は叶わなかった。
「アンタひとりやから、食事は談話室や。コタツで食べてくれ。」と、おいしいサロマのホタテ尽くしの料理を頂き、食後はポットの湯でセルフコーヒーを飲んだ。

私一人の為に沸かしてくれたのであろう風呂場へ案内をされた後、

「そうや、だいぶ前に田上さんの研究や言って北大の先生たちが見えとったのを思い出したわ。」と、ペアレントさんは受付の方へ戻っていきながら、「明日は早いんやろ?わしらきっとまだ寝とるで、悪いけど一人で起きて出掛けてな。」と、子供っぽい顔で笑いながら手を振った。

     
 私の部屋 (テレビとコンセントがあった)  裏より  ブルーシートで雨漏りを防ぐ

翌朝、宿泊代をカウンターに置き、裏へ廻って写真を撮っていたら、後ろから声を掛けられ驚いた。
「田上さん、サロマ湖へ流れる地下水を考慮しとらんかったんやな。水が堰き止められて山側はぐちょぐちょやし、こちら側の痛みもえらい早いわ。」
このユースホステルを気に入ってしまった私の様子に満足気なペアレントさんは車まで見送ってくれ、「うちらまだやってたら、また来てな。」と、別れの挨拶をしてくれた。




1975年(昭和50年)


「丸紅緑ヶ丘分譲建売住宅第2期」  建築場所 札幌市豊平区澄川5条13丁目付近  一部現存

田上先生がデベロッパーの企画する建売住宅プロジェクトに乗っかるとは、一体どういうことなのか?
オイルショックに大きく影響を受けた建築業界では、材料の高騰と不足で倒産に追い込まれる業者が続出したり、生き延びても受注減に翻弄された。
田上先生もこの時期に仕事量が激減しているようであった。
そんな世の中だったので、デベロッパーに足元を見られて設計を請け負ったのか
、それとも自ら進んで企画に飛び込んで行かれたのか、つい詮索をしてしまう。

     
 朝日新聞 1976年2月28日 広告記事  Googleマップ 2010年8月撮影  現在 2014年5月

朝日新聞に掲載された広告写真を見て、体が固まった。
建売住宅とはいえ、例の片流れ屋根の外観に冷却窓付換気口が並んでいるではないか。
平屋に見えるかわいらしさに誘われ、すぐに緑ヶ丘エリアへ向かった。
写真に映る陰の具合から北方面へのアングルと見当をつけ澄川地区を隈なく廻ったが、どうしても見つけることができなかった。
Googleマップを確認すれば4年前くらいの状況確認ができることを思い出し、その中に発見できるかもしれないという可能性に賭けた。
果たして思惑通りに発見し建築場所を特定、もう一度現地へ向かった。
その場所に現存していた改修増築住宅にその名残を確認することができ、私の執着心は報われた。



建売住宅は5タイプ12棟が建てられていたらしい。もちろん、残る4タイプの確認も怠るわけにはいかない。

     
 広告に唯一紹介されていた Iタイプ  2棟発見 サイディングの改修程度にとどまっていて安心

両翼を広げた外観の Iタイプは、過去のユースホステルの姿を思い起こさせる。
玄関横の階段に光をもたらす縦長の窓が特徴で、付近に2棟発見することができた。

   
 玄関横の階段窓の形状にKタイプとみた  恐らくこれもそうだろう  ?タイプ

Iタイプ、Kタイプ、?タイプ、タイプ名不明の片流屋根を特定、本当はもう1タイプ残っている筈だが、これは潔く諦めた。
同好の士がいらっしゃいましたら、結果報告を待ちたい。



後日談
ギャラリー創「田上義也のスケッチ展」で清水さんとお会いした。
その時、残る不明タイプはこれではないかと清水さんに見せて頂いたのが、下記の写真である。



今、編集しながら気が付いたのだが、これは上記Kタイプではないか?
この形が元々のKタイプで、上記の物件は車庫の上に部屋を増築したものと思われる。
清水さん、謎のタイプを探す旅はまだまだ続きますよ。   2016.4.15


更に後日談
ふらりふらりと緑ヶ丘地区を徘徊しておりましたら、見つけましたよ最後の謎物件。

   

田上先生、60年代後半から腰折屋根デザインを使うことが多くなりました。
この住宅では同じ形の屋根を1・2階に重ねて、まるで繰り返すハーモニーが聞こえてくるがごとく、指揮棒を振る田上先生のお姿が見えるようであります。
竣工時の住宅地図を調べてみれば、この区画にはこの住宅が1軒のみだったので、それなりの存在感を放っていたと思われます。
軒天頂部の菱形換気口、コの字型に出っ張った窓枠、キャンティー玄関庇など、建売住宅にしては見所いっぱいです。
本当は正面から撮影したいのですが、広角レンズのカメラを3脚につけないとなりませんので諦めました。  2017.10.16





1974年(昭和49年)

「Iw氏壮瞥別荘」  建築場所 壮瞥町壮瞥温泉  現存




洞爺湖畔の道路を走っていると、私に響く住宅が登場する。
ツノを持った屋根の外観に、標津町福祉会館やオホーツク水族館などと共通する田上チックな匂いを感じてしまうのである。
洞爺湖畔の住宅だけに、カルデラ湖の地形を屋根に象徴させたのではないか。

ある日、やはり、この住宅が田上先生の作品だとわかった。

     
 正面は常に逆光になるのが残念  凸凹の多い東面  ツノのデザインを後ろから見る

洞爺湖地区は雪が少ないのであろうか、無茶なデザインの屋根に痛みは見えなかった。
恐る恐る近づいてみれば、1階のリビングは台形に張出しており、その上部にバロック風な飾りが付いているのを見つけ、慄いた。
いや、バロックではなく、洞爺湖のさざ波に違いない。
このようなダイレクトな表現をさせた顔をもっと堪能したいと、更に踏み込んだ。

   
 洞爺湖のさざ波  リッチな玄関

ひと気の無い別荘。
レースカーテン越しに内部を拝見する。
カウンターバー式のキッチンの奥には大きな厨房、リビングの中央にスチール製のらせん階段があり、およそ一般人には理解できないであろう空間が広がっていた。

更に奥へ進むと、大きな玄関があらわれた。
道路側の入口は勝手口だったのか?
いや、厨房とは反対側なので勝手口ではない。
別荘建築のしきたりを知らぬ私には、なんとも謎の配置である。

大きな玄関の壁は大理石で仕上げされている。
花のようなオブジェの横にはスリットの色ガラスがはめ込まれている。
玄関やその上のテラスに侵入してきている山ブドウのツルが、なかなか良い味を加えている。

そして、柄の合った大理石の模様に目が留まる。
柄の珍しい現れ方を活かして使ったのは明らかである。
ミース・ファン・デル・ローエもびっくりである。











「ルベシベユースホステル」   建築場所 北見市留辺蘂町旭中央24   かろうじて現存

   
 前面道路から  裏から

日本ユースホステル協会設立時に初代理事長、そして2代目会長として献身された中山正男氏は、この留辺蘂で幼少期を過ごした。
彼の書いた「馬喰一代」という小説は、この町が主な舞台となっている。
このユースの内部には、1969年に亡くなってしまった氏を称えた中山記念館があったということである。
2000年に閉じてしまったルベシベユースホステル、今となってはどのような展示物があったのか、別の場所に移ってしまったのか、私にはわからない。

2013年に訪れてみると、仲よし公園の奥に雑草に埋もれた状態で立っている姿を見つけることができた。
軒先が壊れた様子を横目に、建物中央の玄関まで歩いた。
東西に長い2つの招き屋根を玄関上で重ねている。
軒際にはいつもの屋根裏冷却の為の細長い窓が連続している。
現在は施錠されてしまった玄関の奥には、吹抜けのあるホール、その正面に中山記念館があったらしい。



カメラを構えていると、近所にお住いだというおばあさんから話しかけられた。
映画化もされた「馬喰一代」のロケは、まさにこの場所も使われたんだそうだ。
「三國連太郎主演のほうだけどさ。あたしもちょっと映ってるんだよ。」

家に帰って調べてみると、
1951年に三船敏郎と京マチ子により映画化される。
1963年に三國連太郎と新珠三知代により再度映画化された とのこと。
三船バージョンはDVD化されているのですが、何故か三國バージョンはDVD化されていないんですよね。
しかし、たまにフィルム上映会の機会があるようなので、いつか見てみたいと思う。
あのおばあさんをフィルムの中に気づくことができれば、尚うれしである。

庭で採れたというカボチャを頂きながら、「あんた、お酒飲むのかい?」と聞かれた。
今夜はこの家で御厄介になろうかと思ったら、「駅前で馬喰一代っていうお酒が売ってるからさ。飲んでみな。」とのこと。

2本求めて、実家への土産にしてみると、うまいうまいと父に飲み干されてしまった。
インターネットでも購入できるらしい。

















1973年(昭和48年)

「丸紅緑ヶ丘分譲建売住宅第1期」  建築場所 札幌市豊平区澄川5条13丁目付近  一部現存?

   
当時の資料 (池田様より) 

かつてこの分譲地に住んでいらっしゃったという池田様より、当時の貴重な分譲カタログがメールで届けられた。
太枠で囲った部分が第1期の分譲地区で、このうちの幾つかを田上先生が手掛けられたはずなのである。
雪も融けたしそろそろ現地探索へ行ってみようかと思っていたところに、今度は私を先回りするかのような画像メールが清水様より届いた。

   
第1期物件の発見か? (清水様より) 

軒無しの外観ですな。
かなり若々しいセンスによるデザインで、それまでの田上先生のデザインと比べるとあまりうれしくない方向であります。
壁面上部に軒裏冷却窓付換気口があれば、間違いなく田上物件発見なのですが、さすがにこのデザインには似合わないですな。

「所長、注目の軒無しデザインはどうですか?」
「建設費も抑えられそうだし、よかろう。」
予算の制約が厳しい建売住宅プロジェクトには考えられそうな物語ではないか。
軒の出の無い家なんて家ではない、という拒絶感覚が強い風潮の中、先端デザインを分譲住宅でやってしまったというところが田上事務所らしさと言えるだろうか。
確信の持てないままであるが、ここに掲載させていただくことにしよう。

この数年後に西岡地区へ分譲された山下和正氏による建売住宅群も軒無しデザインだったようですが、こちらの方は大変な雨漏りだったそうです。



「高田孝三郎邸」  建築場所 札幌市清田区清田3条    現存せず



グーグルマップストリートビューは本当にありがたいです。
なぜかって、過去の風景も見られるようになっているからです。
ですから、現在はもう解体されてしまった建物をタイムマシンさながらにさかのぼって、眺めに行くことができるのです。

しかし、実際にパソコン画面で時空の旅を行い、挙句の果てに田上先生の住宅作品を見つけ出してしまったホッケン研新入員の小野氏。
表彰状をお贈りします。

さて、この高田邸。
今まで外観写真も図面も何も見たことがありませんでしたが、この外観をストリートビューで見せられた時、田上先生の住宅作品と確信し、血圧が上がりました。
この角度でしか見ることができないのですが、エッジの効いたシャープさと丸みのある優美さが同居した外観に見惚れてしまいました。
ガレージより少し上がった所にある玄関、そしてガレージ上の部屋や片流れ屋根の上部へ複雑な空間が展開していっているに違いない。

痛みの見られない外観と手入れの行き届いた庭。
律儀な高田さんの人柄がじわりじわりと伝わってきます。



1972年(昭和47年)

「摩周湖ユースホステル」
  建築場所 川上郡弟子屈町字弟子屈原野883  現存

     
 正面  造形的な屋根  後姿

宿泊棟を包む片流れの大屋根部とプレイリーチックな低層部が無理矢理くっついている、という印象の外観である。
片流れのトタンは後方で大きく折り曲げられ、地面すれすれまで下ろされている。
腰折れ屋根の尖った先端をじっと見つめていると、船のへさきを連想してしまい、宇宙戦艦さながらに地面から抜け出て飛び立つのではないかと頭がくらくらっとした。
ちなみに私の脳内で重なった「宇宙戦艦ヤマト」は、1974年放映開始とのことなので、この2つに全く関係のないことを付け加えておく。

ホールのカウンターで若いペアレントさんに尋ねると、やはり宿泊客は私だけとのことであった。

     
 ホール  入口を内側から  談話室

無論、部屋にテレビは無い。
ユースホステルにテレビは必要ない。
携帯電話は圏外で、コンセントジャックも無い。
夜中に飛び込みのバイカーが1人到着したのが聞こえてきた。
静まりかえった建物に、一瞬のクライマックスが訪れたような出来事であった。

 天童木工のイスだけが、私をほっとさせてくれた



「イクサンダー大沼ユースホステル」  建築場所 亀田郡七飯町大沼  かろうじて現存



いつ営業をやめてしまったのかわからないが、ぜひとも行ってみたかったイクサンダー大沼ユースホステル。
もともと基本設計では、敷地真北にある駒ヶ岳へ望むように配置されていたが、後に道路に面するよう西北西向きに修正されて完成したとのこと。
どっしりと構えた外観で、太すぎる2本のライト風柱型が、たいそう印象に残る。
そして、頂部についた菱型窓の美しさにいつまでも見惚れてしまう。

   

切妻屋根の頭頂内部は室内の温かい空気が一番集まるところで、この時代の断熱技術では屋根に雪が積もった時、屋根裏に結露が発生しただろう。
それが大量につくと、流れ出して室内に侵入してくるのではないか。
建物の裏表の軒天についた菱形窓は、屋根裏を塩梅良く冷やして、それを防いでくれたことだろう。

この建物、イクサンダというアイヌ酋長の名を借りたということですが、様々な資料ではインサイダー大沼ユースホステルと記されたものが多く、私は違法株取引用大沼簡易宿泊所と連想してしまいました。
田上先生の作品説明書きには、テラスをテレス、キッチンをキチンなどと書いてあり、挙句の果てにはキャンティレバーをカントリーバー、あらら、田舎の棒となっています。
書き取った人は建築用語を知らない人だったのでしょうと思っておりましたが、アメリカ人風に巻き舌でカントリーバーと発音してみれば、おや?こちらの方が正解ですか。
テレスもキチンも、しっくりきますね。
田上先生、きっとイクサンダをエキスンダウと発音し、インサイダーと書かれてしまったのでしょう。



「滝沢充雄邸」  建築場所 札幌市中央区伏見   現存せず 2018年解体



いつもとは違う外観を正面に立って眺めただけでは、田上先生の作品だとは確信が持てなかった。
しかし、裏側へ廻ってみれば、縦型と横型に飛び出した窓、そして長い羊かんのような存在感の煙突に目が釘付けになった。
翌年の九島勝太郎邸や高田孝三郎邸に通じる造形チックな雰囲気に背中がゾクッとした。

この高すぎる煙突の頂上にたなびくように乗っている陣笠。
北風を防ぐように柔らかく曲げた形を見ると、撫ぜてみたい気持ちになる。
このふもとには、きっと暖炉があっただろう。

田上先生、宮ヶ丘ユースホステルの暖炉の設計で失敗をされ、竣工したばかりのユースホステル内部をすすだらけにしてしまったという伝説がある。
だから、煙突を太く高くしたのだろうか。
それとも、デザイン上の意図があったのだろうか。
竣工時の全体像を見てみたい。
そうすれば、その訳がわかるだろう。




1971年(昭和46年)

「旧三菱石油トレーニングセンター」  建築場所 札幌市白石区本通6丁目北4−1  現存せず  2018年7月解体

怪しい臭いをプンプンさせているENEOS本通6丁目店。
このガソリンスタンドの前を通る度、サービスステーションの後ろに控えた丸く大きくせり上がる軒と天辺の丸い塔が、私にミテミテ光線を発射してくるのだった。

     
 スタンド左側から  スタンド右側から  裏へ廻って

ダイナミックな軒は、ロンシャンの礼拝堂をモチーフにしているだろう事は間違いない。
しかし、塔のデザインはどこから来ているのか?
あらためてロンシャンの礼拝堂を確認してみたとたん、体が固まった。

   
 ロンシャンの礼拝堂  その後姿

再確認に行かねばならぬと、ENEOSカードを持って給油へ向かった。
「昔、三菱石油のトレーニングセンターでした。」というスタッフの方にロンシャンの礼拝堂の写真をお見せすると、建物と照らし合わせながら目を丸くした。
御案内頂いた塔のふもとで、その壁が意図的にざらつかせた仕上げになっているのに気が付き、手触り感まで追求していたのかと腕を組んで唸る。
「今はもう使われてないし、見るべき所は無いと思うんですが。」というスタッフの方と共に中へ入る。
階段室だった塔の中を登り、役員室と思しきドアを開けると、目の前に厳かな光景が広がった。
思わず、ひざまづいて手を合わせた。

 (役員室のドアを開けるとロンシャン窓が登場した)

丸くせり上がった軒は、現在は白く塗装されている。
その軒は、竣工当時はきっとコンクリート打ちっ放しで、白い外壁と対比されていただろう。
今あるサービスステーションの屋根も当時は無かった筈で、そうだとすれば、道路から見上げた軒下の壁に色とりどり、形様々のロンシャン窓が輝いていたに違いない。

その姿を眺めた時の感動は、想像するしかない。





「T邸」  建築場所 札幌市中央区宮の森4条  現存

   
 2011年  2014年 独特の後ろ姿が現れた 「売」看板は無関係

宮の森の住宅街を低速走行で隈なく巡る。
じろじろ家を眺めながらハンドルを握る私は、付近住人から、泥棒か悪徳訪販か変質者かを見るような視線を投げかけられる。
竹山実氏が設計されたという「黒の家」を通り過ぎたところで、その隙間の奥に後姿の片流屋根を見つけて急ブレーキを踏む。
大面積のトタン屋根を見つけると、心臓が止まりそうになる。
学生の頃、夢中になって幻の廃盤レコードを探した。
古レコード屋でそのレコードに出会った時に感じる突発性呼吸困難の感覚に似ている。

正面に回り、お顔を拝見。
3色に塗り分けられたバランスに見惚れ、薄桃色って案外良いものだなと思う。
視線の動きは、深い軒の先端に至って空中へ離れ、そして戻ってくるを何度も繰り返す。
片流れ屋根は後ろから見ると、脇の所でキュッと折られており、カツラのおじさんみたいである。
襟足がバツッと切れているところが、更にそう連想させるのだろう。
サラリーマン時代、得意先にそんな髪型の社長がいた。

例の冷却窓付換気口を軒下に認め、しげしげと眺める。
この頃には断熱技術が上がってきたのだろうか、いつも換気口に付属しているガラス窓が無くなっていた。



「宍戸悟郎邸」  建築場所 札幌市西区西野1条   施工 竃q内組   現存せず

後期リーゼントスタイル。
一見では、地味な顔で見過ごしてしまいそうな外観である。

しかし、壁の仕上げがそのまま軒裏へつながっているではないか。
いつもの軒下換気口が無いので、視線が一気に屋根の縁まで舐め上がる。
この彫刻作品のような手触り感は、初めての印象である。

張り出した2階に1階のピロティ。
わざとらしくくっついているパーゴラとバルコニー。

何だか、後からじわじわと惹きつけられる外観である。

(「北国の住まい11」 建設情報社1971年より)








「室蘭ユースホステル」  建築場所 室蘭市みゆき町3丁目12−2    施工 五洋建設梶@   現存

     

ついに訪問できた室蘭ユースホステル。
施工は、1969年に札幌支店を開設した五洋建設である。
この時期、札幌冬季オリンピックのための建設ラッシュで、各ゼネコンをはじめ道内主要建設業者は多忙を極めていた。
田上先生は、自分の設計した建物にお決まりの業者をセットするという事はなく、柔軟に様々な施工業者へ建築工事を任せたようだ。
そんな折り、オリンピック関連施設の受注ができなかった五洋建設が施工を請け負っている。

この室蘭ユースホステルは、船の形をまとった外観として有名である。
これ以外にも、標津町ユースホステル(現存せず)や摩周湖ユースホステル(現存)も船の外観である。
港湾都市のユースだから船の形になったという事も理由のひとつだろうが、夢を携え旅する若者のための宿に航海のイメージを重ねるのはロマンチックなことである。
日本ユースホステル協会2代目会長の中山正男氏は、1966年に「青年の船」構想を佐藤栄作首相に進言し実現させたが、中山氏から田上先生へ「船の形」のリクエストもあったに違いない。
また、当時のヒッピームーブメントやコミューン思想にも「船に乗った共同体」の発想が登場するが、田上先生も自身の若かりし長髪時代の放浪癖を思い出し、賛同されていたのではないだろうか。

   
 朝日の中のフロントカウンター  Pタイルに畳敷きの部屋 2号室潮騒

素泊まり3,500円の宿泊体験をしてみた。
案内された部屋は、Pタイル貼りの床に奥側8畳分だけ畳が敷いてあった。
手前半分はPタイルそのままで2段ベッドが2台置いてある。
どこで寝ようかしばらく考え、布団を畳の上に敷くことにした。

お笑いのテレビ番組を消すと、イタンキ浜の方からかすかな波の音が聞こえてきた。
カーテンを開け、窓の向こうの暗闇に目を凝らす。
夕方にチェックインした時、ホールですれ違った少年たちから元気よく「こんにちは!」という挨拶がかかり、ひるんだことを思い出した。
今夜のユースは体育会系高校生の合宿場となっていたようだが、礼儀正しい少年たちよ、もう寝てしまったのだな。
4人部屋に1人で居る所在の不確かさを味わいながら、私も床についた。

翌朝、藤当ペアレントに許可をもらってエントランスの吹抜けや船首の形になった非常階段室をゆっくりと撮影させていただいた。

     
 吹抜けを見上げる  吹抜け2階からイタンキ浜方面が見える  船首の非常階段

こうしてみると、個室よりも共用スペースの方が格段に素敵な空間である。
その昔、若者たちの熱い会話や全国各地からのトラベラーたちの出会いが、この吹抜けのあるホールで繰り広げられたに違いない。
話しつかれた若人たちが寝るためだけの部屋に、余計な設備は必要ない。

@このような使い方を守りながら建物を維持させること
Aロケーションを活かしてレストランに改修すること
B設備を新しくして一般受けした宿泊施設に生まれ変わらせ、商売を成り立たせていくこと

仮に潤沢な予算があったとしても@を選んでしまう私は、
これからも決して時代に乗ることなどできないであろう。   2016.10.10




「札幌冬季オリンピック・恵庭岳滑降競技場各施設」  建築場所 千歳市恵庭岳西斜面  施工 岩倉組土建梶@ 現存せず

   
 運営本部 ブロック造・木造  サブプレスセンター 鉄骨造・木造

札幌冬季オリンピック景気に沸いた建設業界。
沢山の施設が計画されたが、本州資本の大手組織事務所や市内の新興事務所がほとんどの案件を押さえ、幾つかの道外組も狙った獲物を一本釣した。
その中で、田上先生は唯一市外に計画された恵庭岳のアルペンコースに付帯する各施設を獲得された。

この恵庭岳滑降競技場は、オリンピック閉会後に再び自然へ復旧されるという条件で計画が始まった。
計画段階から解体を待つという建築。
ほんの一瞬、かりそめに存在するという儚さ。
古本でそれを知った私は、体の一部が火照ってくるのを感じるのだった。

鉄筋コンクリート造の建築が多勢を占める中、
木造物件を狙って田上先生が獲得されたのか、
田上先生にも何か一つという配慮が働いたのか、
田上先生が、道内の若手にメイン施設を譲ったのか、
設計計画の獲得競争にどんな裏話があったのか、あれこれ想像をめぐらせてしまう。

   
 山頂ハウス 木造  中間ハウス 木造

選手がスタート前に控える山頂ハウス、コース整備員の為や負傷者に備えた中間ハウスを見てみる。
高床式の木造構造が、戦時中のベースキャンプ施設に見えてくる。
田上先生には珍しい作風で、ついついじっくりと目を凝らしてしまう。

支笏湖畔に立って、対岸の恵庭岳西斜面を眺めてみると、施設の建っていた場所はあの辺だったに違いないと想像が尽きない。
既に自然の姿に戻っている建設跡地に踏み込んでみれば、その跡片を発見できるのではないかと、つい恐ろしいことを考えてしまうのである。
(「札幌オリンピック施設」 札幌オリンピック施設編集委員会 1971年)


「S邸」   建築場所 札幌市中央区宮の森4条  施工 竃q内組   現存

深い軒と壁面の分割デザインにピンときて、運転席からそっと撮影。
しげしげと外観を眺めていると、1階の基礎に段差がついていることに気が付いた。

   
 竣工当時(「北国の住まい11」 1971年)  現在 2011年 

過去、スキップフロアになかなかチャレンジできなかった田上先生。
それまでの断熱技術で伸びやかな空間を求めたならば、暖房が非効率になったであろう。
断熱レベルが上がってきたこの時代に、傾斜地の案件が舞い込んだ。
きっとやる気満々で設計に取り組まれたのではないだろうかと、想像するのである。


 2014年 美しい後姿にうっとりした



「T邸」   建築場所 札幌市西区西野8条  現存

田上先生の煙突の頂部には「陣笠」が被さっていることが多い。
先生が採用される「陣笠」は、両脇を天に向かってキュッと折り上げたデザインの物が多い、とホッケン研のハッシーが教えてくれた。

       
 本郷新アトリエ(1965年)  坂本修三郎邸(1966年)  旧Sk邸8(1967年)  Ik邸(1970年)

それからというもの、これを見つければ田上作品に出会えるのではないかと、不審者さながら「陣笠」ばかり見て歩く癖が付いてしまった。
思惑通り、その一環で見つけた「T邸」。
獲物を求める執念での発見に、私の自尊心は大いに満足した。

   (Ik邸の陣笠と同じかな?)

らせんの階段が外部に現れている。
唐突な感じも受けるが、いつも脇役の扱いを甘んじなければならぬ階段に光が満ち溢れるのだから、ちょっと新鮮な気分。
問題は、このカタチである。

このデザイン、後に住宅建売業者によってお城風の外観のネタに応用され、濫造されていってしまう。
「階段を隅に追いやったので居間が広くなりました。」と言ったであろうインチキセールスマンのトークが目に浮かぶ。
そして階段室が、少女趣味の溢れたロマンチックな塔風に強調された。
欧米文化に憧れの強い団塊世代のお母さん達に、大いにウケたのではないか?

1970年代のロマンチック洋風建売住宅例



1970年(昭和45年)

「Ik邸」   建築場所 札幌市東区北23条東   現存

   

やっぱり田上先生のデザインはこうでなくちゃ、と見て安心する外観である。
2重にトタン屋根の組まれた1階部分と2階正面の分割された壁面を見ていると、「音楽は時間の建築、建築は空間の音楽」と言っていた先生の言葉が思い出されてくる。



「T邸」  建築場所 札幌市中央区南3条西   現存せず 解体2014年ころ?

前年の「M邸」に引き続き、アーチ型の窓とスタッコ仕上の外観が強烈な印象である。

海外旅行に行き始めたハイカラークラスの人々が、ちょっとハイソな南欧風に憧れたのだろうか?
何故、田上先生がこのような外観のデザインを2軒も続けて設計したのだろうか?
1968年の「S」邸から始まった異質な方向。

謎は深まるばかりである。












1969年(昭和44年)

「M邸」   建築場所 札幌市中央区伏見   施工 真鍋組  現存

この住宅の写真には、かなり急な坂道が写っている。
だから、双子山か円山西町か伏見かの何処かに違いないと見当をつけ、現地探索を開始した。
しかし、どうしても見つけることができなかった。
ある日、古い住宅地図の中にこの住宅の名前を偶然発見し、唖然とした。
以前より、このM邸に気付かず左隣の家に何度もお邪魔していたからなのである。
(その家は現在「ブリッジのある家」と呼ばれている。)

気を取り直して、すぐに現地確認に向かう。












現地に到着すると、庭に茂った樹々に隠れて正面の姿が見えない。
辛うじて、玄関側からの見上げでしか確認できない。
だから、気付かなかったのだと弁護の理由を取り繕った。


後になっての改修工事なのであろう。
雪が玄関側に落ちないように屋根が立ち上がっている。
特に印象的な点は、窓をアーチ型に飾りこんだ壁面のスタイルである。
しかし、これが、私には辛い。
洋館風な外観が、当時隆盛を極めたラ○ホ○ルからの影響があるような気がしてならないのである。

ともあれ、現存のうちに確認することができて良かった。

モノクロ写真(「北のまれびと」 現代出版社1977年より)









「奥村邦教邸」  建築場所 札幌市中央区宮の森1条6丁目4−13   2012年春?解体

2012年1月のこと、奥村邸にたどり着いた。
しかし、門の鉄柵は閉じられたまま、深い雪が玄関を覆っていた。
増築されているのであろうが、田上ポイントをどうしても見つけられなかった。

雪が融けたら、ぐるっと周りを見てみよう。
その時に何か名残を見つけられるかも知れない。
とりあえず今回は正面の写真だけ、とシャッターを切った。

ところが暖かくなった頃に再訪問すると、更地になっていた。
たった1度の出会い、たった1枚の写真しか残すことができなかった。

玄関に架かっているパーゴラ。
もっとしっかり撮影しておけば良かった。







「月形ライオンズクラブ記念碑」   建築場所 月形町1219番地  施工 鈴木建設   現存

     
 正面より  碑面裏  1972年に完成した役場の看板も類似デザインでまとめてある

田上先生は1959年に札幌エルムライオンズクラブに入会され、10年後のこの年、第11代目会長になられた。
同時期に月形ライオンズクラブ5代目会長だった多田典正氏より、結成5周年記念碑制作の依頼を受けられた。
完成した記念碑は、2つのL型塔で碑面をはさんで宙に浮かせたデザインとなった。

L型の形状の理由は、ライオンズクラブの「L」に依る。
しかし、「L」の字体は先端に向けて徐々に細くなっていく。

おや?これはどこかで見たことがあるぞ。

じっくり見ていると、根元のカーブが2字曲線に見えてくる。
六角形の台座も雪の結晶を意識していそうだし、塔の先端は、やっぱり鋭く斜めに切り落とされている。
地面にドンと置かれた碑は、マッスの塊ですよ、こりゃ。
田上先生、右側のL塔の高さを左側より少し高くしてみたかったと思うのだが、それでは型枠が2つ必要になってしまいますね。

この記念碑が完成した時、まだ北海道百年記念塔は建設途中なのである。



1968年(昭和43年)

「S邸」  建築場所 札幌市中央区北3条西    現存

北3条通りに面して建っている住宅。
何か気になるなあと思わせられていた。
陸屋根や張りだした大振りのバルコニーのデザインに只者ならぬ雰囲気が漂っていた。
ある日、「北のまれびと」という本の中に、この家が載っているのを見て、硬直した。

もちろん翌日は、舐めるように鑑賞。
玄関にコンクリート製の花台があるのを見つけ、動けなくなってしまった。













「札幌市第2勤労青少年ホーム」  建築場所  札幌市中央区北8条西24丁目   現存せず 2014年9月頃解体

2013年3月末をもって閉鎖された「レッツ円山」。

   
 竣工時 (北海道新聞 1968年12月28日より) 2013年 閉鎖後のひっそりとした施設 

60年代に入って、田上先生は大谷石を意匠に使うことが大きな特徴になった。
この建物の玄関壁にもこの石がデザイン貼りされている。
その部分と、玄関上に6つ並んだ3方枠の出た小窓、そしていつもよりやや控えめなタリアセン風玄関庇が、田上先生らしいポイントである。


そっけない外観の内部には、付近の商店や工場で遅くまで残業させられる少年少女のための娯楽室や集会室、浴室があった。
写真は、派手に造りこまれたカウンターが目を引く喫茶コーナーである。
ウイスキーの水割りが出てきそうな雰囲気である。

ウィスキーは出るはずもないが、灰皿スタンドは写っているので、コーヒーでも飲みながら煙モクモクだったのではないだろうか?










「支笏湖ホテル鹿の湯」   建築場所 千歳市支笏湖温泉  施工 地崎組  現存せず



現在も定山渓温泉で「鹿の湯」と「花もみじ」を経営されている金川家。
1927年から現在までに及ぶ長い歴史のある1時期、支笏湖でもホテルを持っていた。
それが、田上先生による設計だったのである。

湖に向いた横長の宿泊棟、そしてライト先生譲りの幾何学デザインの窓を持った食堂と大浴場の棟が飛び出している。
ここの敷地は後ろの森へ少しづつ高くなっているから、恐らくエントランスホールはこの裏側2階にあるだろう。
カウンターでチェックインを済ませれば、そのままロビーを通り抜けて2階に広がる外部テラスに誘導されるはずである。
光に満ちたテラスに出てみれば、大自然の風に吹かれながら支笏湖の絶景に浸ることができるという仕掛けである。
このイン・アウトの切り替えによるテクニックには、本当に心がワクワクしてしまうものである。
このホテルが今なお支笏湖畔に残っていたのなら、世の田上ファンは必ず訪れたくなるに違いない。

赤い屋根に薄桃色の外壁、木肌を効果的に使った外観は、鉄筋コンクリート造であるにも関わらず、とても優雅で温かみのある印象である。
宿泊棟壁面の分割デザイン、テラス全体に及ぶパーゴラ、陰影深い数々のデザインが、フルコースの田上先生らしさにあふれている。
室内もまた、手抜きなしの立体的な装飾が隅々にまで施されている。
ところがこのホテル、あまり長生きできなかったようである。

ライト張りのデザインは当時、一般市民にどのように受け取られていたのだろうか?
ちょうど帝国ホテルの解体と同時期なので、リバイバル的な話題を提供しただろうか?
もしそうだとしたら、熱い話題が冷めるとともに古くなってしまったのだろうか?

       
 床と天井の呼応が素晴らしいロビー  ロビー横の喫茶コーナー  食堂「樽前」  大浴場

このホテルは支笏湖畔のどこにあったのだろうかと昔の住宅地図を見てみれば、なんと支笏湖ユースホステルの湖畔側にあったのです。
ユースホステルから眺望を奪った格好になってしまったようだが、田上先生の2つの作品が並んであったという景色を想像するだけで、卒倒しそうな自分を感じるのである。



カラー写真 「THE80TH ANNIVERSARY CHIZAKI-GUMI」 より
モノクロ写真 (「鹿の湯グループ50年史」 昭和52年発行)より 



1967年(昭和42年)

「S邸」 建築場所 札幌市豊平区月寒〜  現存かどうか不明 

月寒に建てられたという2世帯住宅。
単純な切妻屋根の中央に階段室を突き上げるように配置したとのこと。
その階段室には、小さな窓が6つも並べられている。
恐らく1番上の窓は、小屋裏を冷やすための冷却窓に違いない。
よく見てみれば軒下に換気口のようなものが確認できるので、いつもとは違うデザインが生まれたようだ。

この時代の住宅に、階段室や玄関ホールへ窓を大きくとって明るく照らし出すという計画が目立ってくる。
居住スペース以外にも光を満たしてあげようという気持ちは、設計者のものだったのか、それとも一般に求められはじめたものだったのか。
それにしてもこの6つの窓、引違窓に見える。
はめ殺し窓であったら、もっと美しく見えたのではないだろうか。









若夫婦が居間でくつろぐ時、老夫婦は隣の和室で過ごす。
通常、ペチカは壁に設置されることは少ない。
しかしこのS邸では、居間と和室の間の壁に仕込まれているから、冬でもプライバシーを保ちながら効率的に暖まることができる。
親子の間に壁を立てるとき、「プライバシー」という新しい言葉を使って親を説得しただろうS氏。
妻を気遣って壁を立てたのだろうが、そこまでして2世帯で住まなければならないことに心が痛んだのではないか。
互いを干渉せずに2世帯で暮らすという住宅が生まれ始めた時代の苦悩が、ほのかに感じられるような気がする。

   
 居間側から見たペチカ  裏の和室側からのペチカ (少しさみしい)

(写真 「北国のすまい7」 建設情報社1967年) より



「大山邸」 建築場所 江別市大麻園町10−14?  施工 牧内組  現存せず

小振りな平屋で、かわいらしい住宅。
しかし、田上先生の設計エッセンスが凝縮された住宅とも言えそうだ。
大麻探索での一番のターゲット作品であったが、該当住所と思しき付近一帯には新築住宅群があり、既に大山邸は無かった。

上に向かって窄まっている様に見えるが、あおって撮影したためか、本当にそうなっているのかが、ちょっとした謎である。

(「北のまれびと」 現代出版社1977年より)














「旧 藪邸」  建築場所 江別市大麻中町  現存

2012年の正月休みに大麻地区への田上作品探索を実施して発見した住宅。
三角住宅であるが、近くに現存する坂本修三郎邸に比較すると小振りなサイズである。
新しく造成された大麻団地に建てられたためか、玄関が止むを得ずといった雰囲気で北側に向いている。
切妻屋根の軒に強い北風が引っ掛からないように壁を一部ふかして軒無しにしたとの事。

リフォーム工事もオリジナルの姿から大きな変更をせずに行われたらしい。
(モノクロ写真 「北国のすまい7」 建設情報社1967年) 

     
 竣工時 1967年 現在 2012年   南側



「旧Sk邸」  建築場所 札幌市豊平区豊平5条  現存

以前より田上先生の作品かなあと気になっていた南7条米里通に面して残る住宅。
片流れ屋根のある外観に、正面の柱型は何となくライト風デザイン。
2階には横長に細く連続させた窓があり、軒はシャープに仕上げられている。
当時らしいエッセンスに包まれながらも、レトロな菱形窓がポイントとして効いている。

「北国の住まい7」という古い雑誌で、この住宅が紹介されているのを見つけた。
竣工時は玄関が正面にあり、その上にはパーゴラもあったらしい。
しばらくして、道路拡張計画にこの住宅が引っかかってしまったようだ。
しかし、玄関を南側へ移設し、パーゴラを撤去し、ともかく本体は生き残ったらしい。

     
 現在 2011年 竣工時の外観と室内イメージ (「北国の住まい7」 建設情報社1967年より)




 「T邸」  建築場所 札幌市中央区宮の森4条10丁目付近  恐らく現存せず




住居部パートと玄関や車庫を包むパートが接続された「T邸」。
変形腰折れ屋根に守られた住居部壁面は分割デザインされており、この頃の田上先生らしさにあふれている。
玄関の上は吹抜けて縦長の窓ガラスがはまっている。
北側に向いた玄関でも光が十分に入ってくる仕掛けである。
吹抜けを支える柱型は裾へ行くにつれて広がるデザインになっており、どっしりした安定感がある。
その空間を包む屋根の軒壁面も裾広がりで、のちに代表作ともなる札幌市豊平川さけ科学館の原型となっている。
南側に大きく開放したテラス窓は、広々としたリビングルームを明るく照らし出した。



外観写真背景の山並みを見て、三角山の東裾側と睨んだ私は、建築場所を宮の森4条10丁目付近と推定した。
近々、この写真を持ってその付近に住まわれているお爺さんお婆さんにこの家の事を尋ねてみよう。
(「北国の住まい7」 建設情報社1967年より)



「標津町福祉会館」 (現 標津町図書館)  建築場所 標津町南1条西2丁目1−2  施工 三共建設  解体部分あるも主要部現存

標津町には田上先生の作品が多い。
しかし、一番見てみたい「標津町福祉会館」をネット検索しても全く結果が示されない。
それなら、町中を隈なく走りまわって見つけてやるしかないと決めた。
車中、現存していることをひたすら願った。

   
 竣工当時1967年 (「北のまれびと」 現代出版社1977年より)  現在 2013年10月

独特の外観に反応して、急ブレーキを踏んだ。
この屋根の形状、冬のオホーツク海の荒波をイメージしたものらしい。
あまりにストレートな表現に、ただただひれ伏すばかりであった。



地方の町には、古い建物が仕方無くといった雰囲気で活用されていることが多い。
私の撮影している様子を見た若者のうちの数人が、この建物の魅力に気付いたようだった。




「I邸」 建築場所 不明  現存かどうか不明



ダイナミックでコンパクトなI邸。
裾広がりにデザインされた風を切る方立壁が、安定感を醸し出している。
2階のバルコニーには坂本直行邸や河邨邸にも見られる装飾が施されている。
片流屋根の軒側面の形状は、後年のサケ科学館を彷彿とさせる。

高圧電線とポプラ、奥には山が映った背景を手掛かりに、この住宅を探し出してみたい欲求にかられてしまう。
(「北国の住まい8」 建設情報社1968年より)



「辻博邸」   建築場所 札幌市厚別区青葉町   現存

南郷通沿いに建っていた旧辻邸。
外壁を薄黄色に塗られた様子と歯科医院となった外観に目をくらまされていたのか、今まで気がつくことができなかった。
しかし、先日の運転中、平屋部分のシャープな軒と2階の方立壁に組み込まれた垂直パーゴラが私の脊髄を刺激した。

   
 竣工時 1967年  現在 2016年

そばに立って眺めてみれば、それぞれの棟の軒下に冷却換気口もあるし、テラスにパーゴラも見える。
でも、いささかいつもと違うデザインに決定打とならず、田上先生の作品とは確信できなかった。

家に帰って資料をひっくり返し、この竣工写真を見るやいなや、奇声をあげた。
久しぶりの背中の発汗と呼吸困難とが私を興奮させ、最高潮の波が去った後、発見の満足感に心を浸した。


竣工時の庭は、患者のための駐車場に変わっている。
だから、垂直パーゴラは車の出入りの邪魔になってしまうらしく、撤去されている

   
 今、このように撮影するのは困難である。 落ち着いて撮影するには中央分離帯へ避難する必要があるからである。

モノクロ写真 (「北国の住まい8」 建設情報社 1968年)より



「透青ビル」  建築場所 札幌市中央区南8条西3丁目   現存せず

愛衆ビルの地下にあったクラブ「透青」のUママが、新しいビルを建設してそこへ「透青」を引越しさせようと計画を立てた。
建設地は元々、札幌出身の女優 姿美千子さんの実家の紺屋「橘屋染舗」のあった場所である。
そしてUママは、設計を再び田上先生に依頼された。

外壁は白く塗装されたスパンドレルのようで、当時としては斬新な仕上げだったのではないだろうか。
亀甲型や斜めに配置された窓が、異質なムードを盛り上げている。
玄関上の装飾は、屋上まで突き抜けようとする鋭いデザインだが、青いステインドグラスがはまっていたのなら、尚いい。



この建設資金は、常連の客を通じて白石農協から融資を受けて用意されたらしい。
更には何人かの文化人や芸能人からの援助、それでも足りないお金については、北海道遠征の度に立ち寄っていたという読売ジャイアンツのK投手にお願いし、世田谷の自宅を担保にしてもらって捻出したそうだ。
男たちの財布を開かせるUママの魅力、そちらの方に興味が向かいそうになる。

その後、結局払えなくなってしまった借金。
K投手の自宅にも差し押さえの赤紙が貼られてしまったそうだが、その後の事はわからない。
さて田上先生、設計料は無事にもらえたのだろうか?



ところで、私の母方の祖父はその当時、手稲農協の融資係をやっていた。
祖母の口癖で、「お願いですから、悪いことには手を染めないでくださいね。」とは、この「透青」の件も含んだ白石農協不正融資事件が背景にあったのだと、今更分かったのです。


(モノクロ写真 「月刊さっぽろ 昭和46年7月号」 財界さっぽろ より)










「ホテル華の湯」   建築場所 川上郡弟子屈町川湯温泉2丁目   かろうじて現存

   
 2019年の姿  

川湯温泉街に湧く湯は酸性明礬泉で通好みだということです。
かつては賑わいをみせていた温泉街であったが、現在はあちこちに廃業した宿が残ったままで寂しい雰囲気となっている。
田上先生が手掛けれらたこのホテルも、閉鎖以来少しずつ傷みが進んできているようだ。

軒下にいつもの換気口が連続しているので、ああ田上先生の仕事なのだなと、見当はつく。
しかし、直方体の外観には、どうして田上先生の設計でなければならなかったのか理由がわからない。
道東地方の人脈が絡んでいたのか、鉄骨造パネル張りの工法が低コストとして受け入れられたのか。

町発注による解体工事が2020年度中に行われるとの情報が入ってきた。



「北海道銀行 洞爺クラブ」   建築場所 洞爺湖温泉町   施工 三菱建設   現存せず

 
(「北のまれびと」 現代出版社1977年)より

国の文化審議会は2019年7月19日、建造物の登録有形文化財として、道内からは「函館公園こどものくに空中観覧車」、「網走市立郷土博物館」の本館と新館、「大野屋住宅主屋」、「幌泉灯台記念塔」の5件を登録するよう柴山昌彦文部科学相に答申したという報道があった。

田上先生の網走市立郷土博物館が選ばれたことに理解はできたが、新館を含めて認められたことに驚いた。
「新館は窓の高さや形など本館の造りと連続性がある。いずれも独創的なデザインが認められた。」という理由である。
この2言に注目しますと、本館と新館の連続性は簡単にはわからない点、優れたデザインとは言わず独創的なデザインと言っている点が非常に玄人的評価だと感じました。


田上先生の魅力の1つが「独創的なデザイン」であることに異論はない。


私にとって、田上先生の独創的作品の最高峰は、北海道銀行洞爺クラブである。
「フランクロイドライトのロビー邸が、まるでパルテノン神殿なんです。」
これ以外にどう言えば良いのかという私の精一杯の説明は、まるで麻薬中毒患者の虚言の様である。
この写真を眺めていると、柱を離れて空へ飛び立つのか、全世界が洪水に見舞われる時、選ばれし者達のみが乗船できる箱舟なのかという、めくるめく想像の世界へはまってしまう。


この洞爺クラブを求めて洞爺湖周辺を走り回ったことがある。
結局、どこにも見つけられなかったし、どこにあったのかもわからなかった。


ある日、こんな昔話を読んだ。
「1978年10月24日 北海道銀行健康保険組合保養所、有珠山泥流被害により閉鎖」


泥流に浮かび流れていった箱舟は、きっと洞爺湖の中で誰かに発見してもらうことを待っているのではないか。

 (北海道 有珠山泥流災害調査)より

箱舟の元あった場所は、きっとここだったに違いない。(想像)



1966年(昭和41年)

「坂本修三郎邸」  建築場所 江別市大麻中町12−7 現存


正月休みの深夜、坂本修三郎邸を1971年の電話帳で探してみた。
判明した住所をゼンリン地図帳で確かめると、今もまだ残っているようだ。
前庭に余裕のある長方形の敷地へ、建物が斜めに配置されているではないか。
これは大物に違いないと期待に高鳴る胸を抑えつつ、翌日現地へ向かった。

目標の坂本邸が近づいてくる。
三角形のシルエットが見えた瞬間、その独特のプロポーションに田上先生の作品と確信した。

   
 冬  夏

表札は外れて、雪が深く積もっている。
既に無人のようだ。
農材製と思われる青いセラミックタイルが、鈍く光っている。
例の小屋裏冷却窓付換気口は、扇形に割付デザインされている。
居間の上に掛かるパーゴラが、部分的に腐って崩れている。
北側の屋根は、その端で垂直に下ろされている。

札幌なら解体ターゲットとなりそうな住宅と敷地だが、ここならしばらく残っている事ができるだろうと思った。

       
 玄関  屋根が下ろされる  前面詳細  裏




「北海道銀行美唄支店行員住宅」  建築場所 美唄市東2条南  施工 不明  現存

   

北海道銀行の店舗を数多く手掛けられた田上先生。
店舗以外に福利厚生施設の設計もされている。
通常は、役員や支店長クラスの住宅、行員アパートであるのだが、この物件だけは例外的に行員住宅である。

行員のためとはいえ、居間と台所に和室3部屋という内部は他の支店長住宅と同等の構成である。
やはり支店長のためだったのか、それとも特別な行員のためだったのだろうか?

とても地味な外観の中に見つけられる田上先生ならではの点は、いつもの軒下換気口である。
同年の坂本修三郎邸と同じ分割デザインがとてもかっこいい。

   
 美唄行員住宅の軒下換気口 4連  坂本修三郎邸の軒下換気口 9連

ガラリを組んだ木材は、軒下にあるため雨風にさらされないのか、ほとんど痛みが見られない。
細かな職人の手技が光っている。




「福祉センター眺湖荘」  建築場所 虻田郡洞爺湖町洞爺湖温泉190−3   施工 田端組   現存



洞爺湖畔道路が小さな岬をかすめるように鋭くカーブするところにある建物である。
眺湖荘という名前だけに、小高くなった敷地から湖を眺めることができる。
ひと時は荒れ放題の廃墟だったらしいが、数年前より再活用されているとのことである。

     
 竣工当時 1966年  現在 2014年  塔の内部

元々は福祉センターであり、現在は社会福祉法人の運営本部となっているが、時を超えて人々へのサービス施設として使われ続けているところがにくい。
竣工時と現在の外観を比べてみると、車寄せを兼ねた玄関上のせり上がる庇が無くなっている事に気がつく。
たったこれひとつの事なのだが、年をとって落ちついてしまった元ツッパリのような印象が非常に残念である。

玄関の後ろには大きな六角形の塔が控えている。
水平連続窓をもつ母屋は、塔へ突き刺さるようにデザインされ、なかなか大胆である。
塔の内部は、竣工時の写真によると外周部からキャンティーで支えられた螺旋階段になっているように見える。
ところで、塔はなぜ円形ではなく六角形だったのか。
内部は螺旋の円形なのに外部をわざわざ六角形にするあたり、内部が素直に外部に現れるのを良しとする当時のモダニズムの基本精神に反している、と思う、たぶん。
しかし、六角形の作り出す形が他のデザインと調和して、折り紙細工のような影を作り出すことには成功している。
それなら尚更、内部は六角形の螺旋階段であるべきだったのではないか?
まあ、これ以上は追及するまい。

   
 美しいコルビジェ風の北面  湖岸までは芝生が広がり、子供のように駆け出したくなる。

建物から眺められる洞爺湖や湖畔の風景は北側となるため、いつも優しく明るい光に包まれる。
最高のロケーションにある筈なのだが、実は湖畔の林が大きくなってほとんど湖を眺めることはできない。
しかし、窓から樹々の緑を水平にみる景色も体験しがたい贅沢に違いなく、冬枯れの奥に静かな湖を通して見るのも趣深いことであろう。


(モノクロ写真 「北のまれびと」 現代出版社1977年より)



「北の峯ロッジ」  建築場所 富良野市中御料   施工 新菱建設    現存かどうか不明



真駒内滝野霊園の大仏さんが、安藤忠雄氏によって顔を残して体が埋められているという噂話が聞こえてきた。
大仏さんの顔が丘の上に乗っているという姿を想像し、私の脳内で大仏の顔が勇者ライディーンの顔に変わった。
田上先生の「北の峯ロッジ」がどうしても勇者ライディーンの顔に見えて仕方なかった事が、思い出されてしまったからなのである。

動物というものは、本能的に顔を認識してしまうそうである。
味方か敵かという識別本能が、時を超えて私をして建物の外観にロボットの顔を連想させるとは、情けない応用である。

   

勇者ライディーンは、1975年から放映のテレビアニメである。
それでは鉄人28号の顔と比べてみようという執着心は、ありがたいことに、私には無い。

(モノクロ写真 「北のまれびと」 現代出版社1977年より)



「愛衆ビル」   建築場所 札幌市中央区南8条西3丁目    現存せず



「あのビルには、札幌に初めて登場したピンク店が入っていたよ。」
愛衆ビルの事をいろんな方に尋ねてまわり、やっとの事で掴んだお話である。
ピンク店だったよと言われて、性的な響きと田上先生とが結びつかず、頭が混乱した。

「田上先生が風俗店の建物を設計していたとは・・・。愛の衆だけになあ。でもまさかなあ。」と思いつつ、愛衆ビルの事はしばらくそっとしておいた。


ある日、こんな昔話を読んだ。
愛衆ビルとビル内のクラブや小料理屋、そして宝石店のオーナーであったススキノマダムが1町北側に新しく「透青ビル」を建てた。
しかし、白石農協に融資してもらった借金がとうとう払えなくなってしまった。
両物件とも差し押さえられ、競売されてしまったというのである。
その後、日本中を席巻していたピンクキャバレー「ハワイ」を経営する東京の南洋観光が札幌に店を出すにあたり、愛衆ビルに白羽の矢を立てたという訳である。


この建物の外観写真から田上先生の匂いを感じることは難しい。
ハワイに変わる前のオリジナル外観を見るのが叶わないのなら、せめて改装後の姿でも良いからもっと見てみたい。
店のオープンは1974年12月10日であることを頼りに、当時の広告でも漁ってみるか。
もしくは、60代後半より上の世代の人に、札幌初の激安濃厚サービス店の思い出話を語ってもらうとするか。

(モノクロ写真 「リアルタイム北海道の50年 すすきの風俗編 上」 財界さっぽろ 2013年より)



「ホテル神宮閣」  建築場所 札幌市中央区南1条西27丁目  施工 清水建設  現存せず



現在の円山坂下シティハウスマンションのところにあったホテル神宮閣。
名物オーナー布施氏率いる布施観光チェーンの1つで、他には宮の森の山水閣、小樽の天望閣、余市のモイレ城閣があった。
ホテル建設ブームの始まった頃であるが、この神宮閣は修学旅行や企業研修旅行を対象とした施設であった。

豪華さはないが、山谷型にデザインされた深い軒が印象的である。
軒からは3連の細い部材が、3階のバルコニーに届いてから壁面の装飾へ変わり、1階庇まで続いている。
1階は引っこめられた陰の中に庭が入り込んで奥行き感を出し、深い軒とバランスがとられている。
軒天から吊るされた照明と1階エントランスが点灯すれば、なかなかの立体感を演出しただろう。

     
1階 ロビー   1階 大食堂 「アカシア」  ティールーム&バー 「エルム」

内装も凝っているところは見当たらないが、強いていうなら大食堂「アカシア」の床デザイン貼りであろうか?
師匠ライト先生なら織じゅうたんで表現する幾何学模様を田上先生はPタイルのデザイン貼りで再現している。
このテクニックは他の施設にも多く見ることができる。

   
 2階 大宴会場  2階 結婚式場 (会議室にもなる)

モノクロ写真(月刊ホテル旅館 1967年12月号  国立国会図書館所蔵より)



1965年(昭和40年)

「北海道農業近代化コンサルタント」  建築場所 深川市音江町広里129番地  施工 中山組   現存

     

田上先生の雪国的造形手法は、1965年に最高のピークを迎えたように思う。

L字プランの平面を大きな片流れ屋根でまとめて包んで雪を滑り落とす。
深い軒は壁面の劣化を防ぎつつ、南西角の入り口庇を兼用する。
鉄筋コンクリートの柱と梁を効果的に見せながら、壁面はセラミックブロックで地面に積もった雪から建物を守る。

師匠ライト先生からデザインの影響を受けながら、田上先生らしさが花開き、自信に満ちた飛翔感を感じさせてくれる。
屋根が紺色なのでクールに見えるが、竣工時はもちろん赤だったようだ。

   

八雲町公民館にも採用された幾何学アルミサッシ、片流れ屋根が2方向に分かれるデザインは尾崎邸、建物角を持ち上げて飛翔感を出すのは本郷新アトリエや美幌ユースホステルと共通する。
これらの要素を取り入れながらコンパクトにまとまった北海道農業近代化コンサルタント、これぞ田上先生の傑作の1つに数えたい。
うれしいことは、しっかりメンテナンスをしながら使い続けられているということである。



建物の保存運動とは、壊される段になって騒ぎ出すのでは手遅れである。
古くたって大事に使い続けようとしている御当人たちの心意気にかかっているのである。
その御当人たちが、もうこれ以上は維持できないと思い、解体やむなしと判断をする。
恋人から「ちょっと話があるんだけど・・・。」という電話を受けた時のあのザワッとした感触。
ここで手を打つには、全て手遅れなのである。

大事なことは、その建物を使い続けたいという気持ち。
こんなに素敵なんだから、建て替えるという選択肢なんか考えたこともないという気持ち。
その価値観が地域や次の世代の人たちに自然に受け継がれていくこと。

保存運動の力は、別れの気配が纏わりつかないように愛情を注ぎ続ける力に変化をさせるべきである。
「考え直してくれ。これからは心を入れ替えるから。」というような保存運動は、見苦しい。






館内ホールに貼られているPタイルのデザイン貼り。
この真新しさに目を疑ってしまう。
建築当時のものだとしたら驚きの維持管理力、貼り替えたのだとしても様々な困難を乗り越えて実現させただろうと思われる。
どちらであっても、建物への愛情を強く感じるのである。




「Ks邸」  建築場所 札幌市豊平区平岸7条 施工 大和工務店  現存

田上先生の設計アイデア絶好調の1965年、某病院長先生の御自宅として、目の離せない住宅作品が産み落とされた。



トタンで覆われた軒が弧を描いている。
厳しい風雪の進路を逸らすためなのだという。
外部の隅にはシャープな方立てがあり、柔らかな曲面を描いた壁と対比させられている。

先日、田上義也建築作品抄という本の中にその竣工時の写真が掲載されているのを見て、開いた口が塞がらなくなった。

トタンの屋根が、その先端へ到達するにつれて細くなっていくではないか。
こうすることで、曲面の壁面がより造形的に印象づけられるだろう。
ロンシャンの礼拝堂を意識した形であるのは、間違いなさそうだ。

しかし、方立ての左側はロンシャン風なのに、右側は逆に整然としている。
施主のKs氏は、この実験的ゴッタ煮感を認識されていたのだろうか?

当時の中央の建築界では、このような何デモアリ的なデザインの作品は、異端視されただろう。
しかし、このインパクト充分のKs邸が、時間を超えてまだ大事に住み続けられていることが嬉しい。

(田上義也建築作品抄 らいらっく書房1966年)








「Kh邸」 建築場所 札幌市中央区宮の森2条 施工 岩田建設  現存

田上先生によるライト風住宅の傑作のひとつ、吉町邸。
ある日、その近くに田上作品がもう1軒あるらしいという噂を聞いて、即刻出発した。

細い道がうねる古い宮の森地区を探索する。
しばらく歩いた突き当たりの家に、私の照準器がロックされた。



垂直に組み込まれたパーゴラ、弧を描いてせり上がる玄関上の庇、2階の軒下にあるいつもの冷却窓付換気口・・・。
造形的でフレッシュな1階部分に比べ、落ち着いた雰囲気の2階。
こんなデザインもあるのだなと、ともかく記録だけはしておこうとシャッターを切った。

しばらくして入手した田上義也建築作品抄という本を読んで合点がいった。

 BEFORE (田上義也建築作品抄 らいらっく書房1966年)  AFTER

もともとは、片流れ屋根が互いに交差する外観だったようだ。
もしも設計作業が竣工の前年だとすれば、それは東京オリンピックの年である。
躍動感溢れる選手の姿を見ているうちに、アイデアもダイナミックになったのではないかと、またもや勝手な想像を働かせてしまった。



「春香山の本郷新アトリエ」  建築場所 小樽市春香町  施工 大中中村組  辛うじて現存

(田上義也建築作品抄 らいらっく書房1966年)

札幌市民に馴染みの深い彫刻家、本郷新氏の為に建てられたアトリエ付きの住宅である。
片流れの屋根は、家の対角方向に流れていく。
深い軒が、両脇に至ってからは垂直に下ろされる。
よって、正面から見た姿は、ますますリーゼントをした人の顔に見える。

   
 竣工当時 (田上義也建築作品抄 らいらっく書房1966年)  現在(2010年) 撮影:樹に登った永井杏奈 

カクカクして鋭い印象の外観を堪能して玄関から中へ踏み込むと、ほの暗いホールに丸く優しい螺旋階段が現れる。
痛みでギシギシ鳴る床を注意しながら進んでいくと、案の定、別の部屋から照井氏の悲鳴が聞こえてきた。

     
螺旋階段にドキリ   応接室の本郷氏(「すまい」1967年12月号)   応接室の床を踏み抜くホッケン研 照井氏 激写:永井杏奈

現在この住宅は、荒れ果てて辛うじて残っているという状態である。
開けっ放しの玄関から、勝手にキツネも出入りしているようだ。
暗い階段を登るときは、彼らのフンにも注意しなければならない。

お酒が大好きだったという本郷先生。
ススキノで飲んだ後、ここまで帰ってくるのは余程難儀だったらしい。
15年程で、新しい住まいへ移ってしまうのである。




「坂本直行邸」  建築場所 札幌市西区宮の沢2条  施工 牧内組  現存

ある日、古い住宅地図を眺めていたら、「坂本直行」さんという大きな家を見つけた。
その「サカモトナオユキ邸」を確認する為、現地へ向かった。

広い敷地なのに塀が無い。
足元に細い丸太製の柵がついているだけだ。
造りこまない自然な庭が広がり、その奥に山小屋風の大きな家がある。
土の匂いが漂い、親しみやすさに包まれる。

この家が、あの「サカモトチョッコウ」さんの家だと判ったのは、随分後になってからであった。
それが田上先生の設計によるものだと知り、更に驚いた。
それまで田上義也といえばフランクロイドライト風と思い込んでいた私は、他の住宅作品も見てみたいという欲求に囚われた。
そうして、今も抜け出せずにいるのです。
右の3枚(「北国の住まい6」 建設情報社1965年より)

       




無意根山荘 (本山スキーロッジ)」  建築場所 札幌市南区定山渓   解体日 2007年頃?

2006年に閉山した豊羽鉱山。
そのヤマの町に無意根山荘があるとわかった。
しかし、無意根山の登山口にあったと思しき場所へ行ってみると、解体されて跡形も無くなっていた。
私が持っている田上先生のどの資料にも無意根山荘は掲載されていない。
どうしても見てみたいと欲求不満になった。

インターネットで検索してみると、豊羽鉱山のマニアと思われる人がいるではないか。
その方が管理人を務めるHPにこの建物の写真があり、拝借した。

もしかすると、この山荘にも螺旋階段があったのではないかと妄想してみた。
俺の想い出格納庫より)











「札幌市本山地区集会所」 建築場所 札幌市南区定山渓   解体日 無意根山荘解体以前

N社O氏より、本山地区集会所の画像発見の連絡を受けた。
その画像の載る本を読んでみると、本山地区集会所という建物は、上記の無意根山荘と廊下続きでその右側に併設されていたそうである。
更には、元々「本山ロッジ」として完成した施設が、後になって「無意根山荘」と名付けられたという新たな情報も得ることができた。

この時期、全国的に工場の労働環境に改善を求める声が大きくなってくる。
豊羽鉱山で働く本山地区の住民もその例にもれず、それまで無かった彼らの憩いの場と年々増加する無意根山の登山者を含めたロッジの建設を1963年の市長懇談会でお願いし、実現したようだ。
建設費は、豊羽鉱業所からの寄付金も含めて総額1400万円とある。
このあたりモヤモヤと書いてあるが、札幌市が大半の建設費を負担したと読めそうである。

このように2棟が並んだ姿を眺めてみると、集会所の外観デザインの方に1票を投じたくなる。
集会場の窓面も白く見えているので、幾何学模様の正方形グリッドに壁面分割されている様子が大胆モダンである。
薄く深い軒が一層の華を添えているが、竣工1965年2月の翌月迄に累計18.4mの雪が降ったとのこと。
いきなりの大雪試練に耐えられたかどうか心配をしてしまうのです。

(「豊羽鉱山30年史」豊羽鉱山社史編集委員会 1981年 より)








「尾崎清美邸」  建築場所 札幌市南区真駒内南町1丁目6−2  施工 柳谷工務店  現存せず

片流れの屋根が2方向に分かれた外観を持つ意欲作。
トタンの屋根は、地面すれすれにまで伸びており、後姿がエレガントである。
屋根の途中には、暖炉の煙突を兼ねた大きな楕円の筒が飛び出している。

   

このような大胆な外観とは一転して、室内は静寂に包まれている。
それまでの田上先生の内装デザインといえば、木肌を活かしたり、装飾を凝らして仕上げる事が大きな特徴となっていた。
しかし、この住宅では、石膏ボードを下地にして一種禁欲的とも言える白い塗壁の仕上げが続いていく。
一段下がった一角にはホームバーがあり、洞窟風の落ち着きが漂っている。

     

私が田上先生の住宅作品の中で一番惹かれる作品。
それなのに、今もあるのか、どこにあったのか、施主はどういう方なのか、一切不明なのである。 (「北国の住まい6」 建設情報社1965年より)

後日談・・・
上記を読んだホッケン研のハッシーが、1通のメールを送ってくれた。
尾崎邸が掲載された記事が添付されている。
その記事に、建築場所は「真駒内」と載っているではないか。
暗に、調査せよとの指示である。
もちろん、ここまでヒントを頂ければ話は早い。
翌日、建築場所を特定し現地へ向かったが、もうこの建物は無かった。
しかし、敷地にこの家の塀が残っているのを確認でき、僅かな名残の発見に体が震えた。 2012.5.25

   



「N邸」  建築場所 札幌市西区西野3条  現存

「リーゼントスタイル」と私が勝手に呼んでいる外観の最初期の作品。
手稲山に近い場所に建っているという資料を読んで、富丘から手稲本町にかけての斜面辺りかと想像していたが、誤りであった。
今日、我が家の近所を散歩していて偶然発見した。
灯台下暗しとは正にこの事である。
久々の現物との出会いに、興奮で寝付けなくなった。  2012.5.27

   
この後姿にピンときて、正面を見て雄叫びを上げる。しかし、周りの木々に阻まれて撮影できず・・・。 

   
 竣工時 (「北国の住まい6」 より)  現在 2013年 満月に照らされ浮かび上がった美しい姿




「?邸」  建築場所 小樽市長橋     現存

   
 @300坪の敷地の隅に配置  A高台のロケーション 2016年

昨日、サラリーマン時代の元上司であった石川氏にばったりとお会いした。
挨拶や仕事の話など一切抜きで、
「山下!去年、50年前の家を改修工事したんだけども、いい家だった。デザイナーなんていない、大工しかいない時代の家だぞ!」と切り出された。
その昔、会社に海外研修社員旅行があったという時代に、ライトの住宅を見るためだけににシカゴへ行ったという石川氏のおっしゃることである。
ふむふむとお伺いしていると、ナイスなキーワードが飛び出した。
「片流れ屋根でヨォ・・・。」

「誰の仕事かと思っていろいろと調べていたら、お前のホームページにたどりついた。そしたら、おんなじ家が載ってるんだべや。」
その家とは、ひとつ上に掲載した「N邸」の事である。
「段板だけの階段がきれいでヨォ。俺は手を入れるのはマズイと思った。」

ここまで伺ったところで、心は現地確認である。

早速現地入りすると、荒々しい日本海とその向こうにすがすがしい暑寒別岳連邦を望んだ高台がロケーションであった。
北東に向いたリビングから見えるその景色は、恐らく一番の設計ポイントだっただろう。
60年代中盤からスタートするリーゼントスタイルの定番の外観。
冷却窓付換気口やテラス上のパーゴラが見当たらないが、過去の改修で埋められたのだろうか。

今まで何代か替わっているだろう住人、そして何度か繰り返されただろう改修工事の歴史の中で、こうして残り続ける奇跡がある。
さらに、可能な限りに既存を残そうとする改修業者との出会いに救われる。
「まったく、商売っ気がないのね。」と新しくお住まいになる方から笑われた石川氏、あっぱれである。

   
 B美しい階段 (オリジナルかな?)  C玄関横にはいつもの大谷石

@B・・・石川久雄氏撮影



「北海道銀行 白老支店」  建築場所 白老町大町3丁目2−11  施工 松村組   現存せず 2009〜10頃に解体?

   
 在りし日の姿 2009年  店内の様子 (田上義也建築作品抄 1966年)より

白老のアイヌに敬意を払って、彼らのデザインをモチーフとした北海道銀行白老支店。
田上先生とアイヌ民族との関係は、バチェラー博士宅に居候していた来道時にはじまったと伝えられている。
しかし、建築のデザインにアイヌモチーフが使われたのは、この頃が最初と思われる。
この道銀白老支店ができた1965年当時は、民芸運動の再興期であったし、北海道開道100年を目前とした歴史認識の盛り上がりも影響したのではないか。
田上先生は、この後にアイヌモチーフや土地の歴史を建築デザインに盛り込まれるようになる。

中央のモダニズムとは距離を置き、北方建築とはどのような建築であるべきかを強く考えられていた時期の特徴である。




「美幌ユースホステル」  建築場所 網走郡美幌町元町31  施工 松村組  現存(2014年解体予定)

宿泊してみようと思いながらもぐずぐずしていたら、先のシーズンで営業を止めてしまった美幌ユースホステル。
失われる前に最後の雄姿を記録すべく、道東への旅を決行した。
旅程の中で一番の訪問目的だったアイヌのチャシ跡に建てられたというこの建物。
ひっそりとした無人の廃館を眺めていると、雄姿というよりもむしろ雌姿のように思われてきた。

1965年は田上先生の創造意欲大爆発の年である。
その集大成がこの美幌ユースホステルである。
建物の対角方向に流れる深く鋭い大屋根は、本郷新アトリエとの類似が認められる。
2階のバルコニーへ導かれる渡り廊下の端には、螺旋階段を包む筒がある。
これは、尾崎邸の階段室を兼ねた煙突とのイメージが重なる。
1階テラスの上に掛かるバルコニーを兼ねた庇は、植田邸Aで復活したライトのタリアセンデザイン。
これらのエッセンスが入り混じった中に、いつもの陣笠が乗った煙突がそびえ立つ。
誰にも咎められる恐れの無い状況で、心行くまま写真撮影に没頭した。






 

カクカクして鋭い印象の外観に対比させた螺旋階段を囲う筒。
このユースホステルでは母屋から少し離れた所にあり、何やら体が誘われ引き寄せられていく。
緊張し、姿勢を正して階段入口に立つ。
田上先生、あえて階段の寸法を詰めましたな。
小さな入口と頭を突っかえそうな階段の低さに、急がないでゆっくり入ってきてと囁かれているような気分になる。
若い男なら、乱暴に進んで頭をぶつけてしまうだろう。

通常、筒は男性を象徴する。
しかしこの建物は、この筒に女を連想させている。
いやいや、ぱっと見は男と見せかけた女かと一人納得してみたりする。

わざわざ美幌まで車をとばして眺めにきた美幌ユースホステルに男か女かを考え込むのはどうかと思うが、恐らく田上先生は意図しているに違いない。













   
 1965年竣工時(「北のまれびと」 現代出版社1977年より)  現在 2013年10月




「八雲町公民館」  建築場所 八雲町末広町154  施工 坂本建設   現存

八雲町は、明治維新後に入植した徳川家によって開拓された。
田上先生は、この公民館の設計にあたり、何んらかのフロンテア的な、前向きな前進の姿勢を、重厚な大きい破風で表現してみたという。
現在の大型物件新築工事には、このような勾配屋根は落雪被害を発生させる可能性があるのでもう採用されることはない。
近い将来、勾配屋根自体がノスタルジーを感じさせる意匠になるだろうと思いつつ、ダイナミックな外観を眺めた。

   
 1965年竣工時(「北のまれびと」 現代出版社1977年より)  現在 2014年10月
   
 (田上義也建築作品抄 1966年)より  現在 2014年10月

竣工から50年経過した現在も大きな変更をされることなく、ほぼオリジナルの姿のまま使われている。
左の写真のように、落雪に配慮した屋根の改修のみである。
ごついコンクリート仕上げのバルコニーと大谷石の壁がベージュ色に塗り潰されてしまった事と、軒下の幾何学模様の大窓がシート張りされてしまった事が残念だが、現存している奇跡に感謝をし、細かい事には目をつむる。

それにしても、階段状の軒デザインに強烈な印象が残る。
徳川家×階段=日光東照宮に至る200段の石段...と、変なことを思いつく。
まさかそのモチーフが使われているのでは?という私の短絡的な発想は、口に出すのを止しておこう。











    館内の階段




「徳丸商会」  建築場所 札幌市中央区南1条西5丁目   現存せず



大正13年に函館で創業した茶道具専門店の札幌本店舗。
営業マンを40人配置して全道くまなく外商セールスを行い、東北以北で最大手の中堅企業だったとのこと。

写真を見たところ、既存店舗の外壁を改修した程度かなと思われる。
幾何学模様に分割された壁面デザインは、何かの仕上げ材を貼り分けたのか、ペンキを塗り分けて表現したのか、そのデザインが屋上に突き出した棒まで延長されている。
その棒は煙突ではないと思われるが、行燈照明であってほしい。

この建物がいつまで残っていたかわからないが、会社自体は1986年に倒産してしまったとのことである。

 (「月刊さっぽろ 昭和44年5月号」 財界さっぽろ発行 より)



「木村勇邸」 建築場所 札幌市中央区南13条西13丁目?    施工 江本木材   現存せず

   

1965年は田上先生のダイナミックなデザインがほとばしる年である。
住宅設計の件数も多く、どの住宅も油の乗った田上先生らしさが感じられ、ひと目で良いから現物を見てみたいという欲求にとらわれる。

この木村邸は、片流れ屋根で家全体を包んだ単純な形と思いきや、1階玄関ポーチから向こう側のガレージにかけていささか大きすぎるプレイリー風デザインの屋根をかけ、立体的に見せている。
南面の居間から寝室にかけて4間にもまたがる大きな窓が開いているが、これでは直射日光がきつすぎるのでないか?
外壁をじっくり見てみると、外壁面からブスッ、ブスッと梁材が飛び出していることに気がつく。
そして、その梁先は柱材に接続され、その柱材が軒天まで伸びているのが見えてくる。
この軒の深さは120cmくらい、いやひょっとすると150cmくらいありそうだ。。
この柱材の下端へ視線を下ろしていくと、今度は、空中に浮いた南面全体にも及ぶパーゴラだろうものに繋がっていることを発見する。
ということはですよ、屋根の軒天から柱材でパーゴラを吊り、その揺れ止めに外壁から伸ばした梁で掴んでいる、ということになりそうである。

なんでこんなことになっているのか・・・。
施主の木村氏は、テラスの地面にパーゴラを支える柱を立ててくれるなとリクエストしたのだろうか?
田上先生、それじゃあ軒を深くしてそこからパーゴラを吊ってしまえと解決したのだろうか?
どちらにせよ、パーゴラのお陰で、文字通り、居間と寝室は程よい日光の遮りができただろう。

このような造作デザインを木で表現されているのを見ると、現代にはない貴重品を見せられたような気分になる。


(田上義也建築作品抄 らいらっく書房 1966年)より


1964年(昭和39年)

「旧 山元邸」 建築場所 小樽市見晴町  現存

細い私道の奥に建っていたので、傍まで行ってカメラを構えるのは憚られた。
だから、離れた場所からズームで撮影した。
いつもに増して盗撮チックな角度になった。

この住宅の翌年、傑作作品が連発する。
その前の静けさのように、控えめな外観である。
春になったら、この家を取材することになっている。  2012.3.8











「長嶋邸」   建築場所 札幌市南区真駒内泉町3丁目11−10  施工 高山工務  解体日 2010年4月6日 現存せず

べランダ上のパーゴラ。
格子状にデザインされた玄関周り。
ダイナミックな片流れ屋根。
八雲町公民館と共通したデザインの階段状の軒。
ここまでネタが揃っていても、田上先生の作品だという確信が持てずにいた。

そんな折、ホッケン研のハッシーから貰った「北国の住まい6」に、この家が載っているのを見て固唾を呑んだ。
やはり間違いではなかった。
解体寸前の記録が出来て良かったと安心した。

     
 解体開始!  (「北国の住まい6」建設情報社1965年より)




1963年(昭和38年)

「水原邸」  建築場所 札幌市中央区南12条西13丁目?  現存せず

弁護士の住宅と思われる。
1階に2世帯が住めるプランになっており、家の東西が27mもある。

2階は応接室となっている。
珍しく田上先生らしいデザインがあまり感じられない和風の住宅。

(「田上義也建築作品抄=’64」 住宅サロン社1964年より)












「島邸」 
建築場所 札幌市豊平区・・・以降不明    恐らく現存せず

招き屋根を重ねて「二重奏の家」と名付けた美しい家。
ブロック造としながら、アピトンやラワンで外装をやわらかい印象に仕上げてある。
玄関周りと門柱はザラついた大谷石貼り、テラスにはいつものパーゴラが立ち、フルコースの田上先生らしさに見応えがある。

ある日、この住宅が月寒公園付近に建てられたという情報を聞きつけた。
公園の周囲に広がる道路をカーナビの走行履歴で埋めるように走破したものの、獲物には辿りつけなかった。

1969年の寒住法の施行まで、木造住宅建設のための融資は行われなかったらしい。
この住宅の施主である島氏は、融資対象のブロック住宅で自分の家を建設することにした。
しかし、木造の味を存分に感じさせる設計を田上先生に求めたのではないかと思われる。
























     
 正面の姿  竣工時 1963年 (門扉が素敵)  1967年 庭木が茂った

大学教授という島氏の住宅には、来客の絶えることがないらしい。
応接間と居間の間のアコーディオンカーテンをたたみ、隣の和室のふすまを引込めば、ペチカを中心に据えた大空間の完成と相成る。
小住宅だが、賑やかだったろう雰囲気が想像される。

   
 応接間  居間

(「新住宅 1964年8月号」「北国の住まい7 建設情報社1967年」より)



1962年(昭和37年)?

「T邸」 建築場所 小樽市花園  現存

 
(google ストリートビューより)

「田上義也建築作品抄 '64」に掲載されている「T邸」。
高台のロケーションのようだったので、それらしき場所をgoogleストリートビュー探索をして発見した。
真っ白なパーゴラと軒裏、そしてベージュの外壁がとても美しく、住み手の律儀さが溢れ出ている。
これで真っ赤なトタン屋根が朝露に光れば、申し分の無い完璧さである。
植田邸Aをこじんまりさせたような外観が1960年〜62年の間の作品と考えられ、貴重である。


後日談・・・
遂に現地確認を実行した。
細い道路が入り組んだ奥にその正面の姿が見えてきた。
この住宅を目の当たりにし、とても大事に美しく住まわれている様子が私の血圧を高めた。
ここぞと決めた撮影場所でカメラの準備をするが、緊張で手が震える。
そうこうしているうちに玄関扉が開き、奥様と思しき女性が私の傍を歩いて出掛けて行かれた。
突然の出来事に声も出なくなり、カメラを電柱の鳥に向けた。
これは、藤森照信さんに習った行動である。

実際には、壁面は薄桃色と濃茶色に塗分けられており、白い軒裏との対比が美しい。
大屋根の上にはプレイリー風のとんがり屋根がちょこんと顔を出している。
冷却窓付き軒裏換気口は幾何学模様に格子でデザインされている。
細かな木部材が全く痛んでいないように見えるのは、Tさんの面倒見が良かったからなのか、それとも新しくやり直したからなのか?
内部の方は一体どうなっているのだろうかと想像が膨らみ、いつの日にかの訪問を夢見るのであった。

   




「藻岩原始林館」 
 建設場所 札幌市南区藻岩山ロープウェイ中頂駅舎横   施工 不明    現存せず

   

藻岩山に住む生き物を観光客へ紹介するために建てられた小さな博物館。
鳥35種、獣27種、その他植物標本やアイヌ民族衣装を展示、特に昆虫標本は、北大医学部岡田正夫教授と札幌市北保健所岡田守夫所長の父子共同の制作であったそうだ。

ロープウェイを降りてリフトへ乗り継ぐ道中にあったこの博物館は、当時たくさんの観光客を招き入れるのに成功。
山小屋風の外観は、最初は順調なスタートを切った。
しかし、霧のかかりやすいこの付近では、じめじめした空気が木造内部から抜けにくかったそうである。
そのうち貴重な資料に青カビが生え、昆虫の足や羽がもげだしてしまった。
結局、7年後に完成した鉄筋コンクリート造の展望台付展示館にその役目を譲ることになった。
その後は、休憩室として使われ続け、いつ解体されたのか、今は現存していない。
(札幌市交通局発行 藻岩山ロープウェー 藻岩原始林館 淡水魚水族館 パンフレットより)




「南条山荘」  建設場所 日高郡新ひだか町   施工 中島組    現存



南条山荘の建った場所を突き止めた。
ひょっとしてまだ残っているのではないかと、現地へ向かった。

H牧場の敷地内に南条山荘が見えた時、やっと目の当たりにできた感激と「ここにいたのか。随分とてこずらせてくれたな・・・。」というちょっとした嬉しいイラダチが心の中で渦巻いた。
牧場端に車を停車させ、玄関までのアプローチを歩きながら、大臣ともあろう南条さんがどうして牧場に別荘を建てたのだろう?と考えた。
あら?屋根はもう赤くないのか・・・、でも建物はそれほど傷んでいない・・・。
恐らく、雪の少ない気候が劣化を進めないのだろうと思いながら、玄関の呼び鈴をゆっくり丁寧に2回押した。
お住まいの方が出られたら、「私は建築研究会の山下と申します。建築の研究をしているものです。」と言う。
強い口調ではダメで、ソフト過ぎてもいけない。
自然な笑顔で相手を見て、両手で名刺を差し出す。
ここに来る間、運転しながら何度も練習した通りに実行するのである。
いや、これで何度か失敗しているではないか。
しかし私には、これ以外に方法が無いのです。

結局、この建物は留守だった。
しかし、隣の牧場事務所をダメ元で訪ねてみると、牧場経営をされている女性のN社長と妹さんが話を聞いて下さった。
「父が亡くなってからはもう住んでいないの・・・。ろいず珈琲館の田上さん?えっ、この建物も?」
田上作品を訪ね歩いて見つけた時の喜びを説明すると、「馬のロマンと一緒ね・・・。」とうなづいて頂いた。



という訳で、その半年後に正式訪問取材をさせていただきました。
詳細は、ホッケン研訪問取材のページ小野氏レポートに譲るが、私の心に残った点は下記の通りである。

   

2階のとんがり屋根の下は、寝室である。
三角に飛び出したコーナーは床までの大きな窓で組み立てられている。
ここのベッドに肩肘ついて寝そべりながら、外を眺めた時の様子を想像するがよい。
120度以上の風景を眼下にしながら、物思いにふけることができるのである。
しかも、緑の牧場を通してはるか彼方に太平洋の大海原を望みながらにして、である。
豪傑者だったという南条大臣、雄大な風景に包まれながら、しかし東京方面をしっかりと睨み、いろいろ考え巡らせ、作戦を練ったことであろう。
うーむ、レースカーテンを開けて撮影しておけば良かったと、後悔するのである。

玄関から2階寝室へ至るホールは、吹抜けの階段になっている。
浮いた踊場から踊場へ、梯子のように階段が架けられている。
その様子が、建築途中のようなワクワク感と吹抜け感を強く訴えている。
分断された階段でありつつ、スチールの支柱で支えられた手摺で全体を繋いでいるという2面性。
この辺り、ザワッとするデザインである。


帰りしな、N社長が片足を牧場の柵に乗せて、このように言われた。
「昔ね、この家をバックにしたランドクルーザーのポスターがあったのよ。こんなポーズの女の人も写っててね。」
やっと南条山荘を見つけたのに、これからはポスター探索が始まるのであった。

写真  グレイトーンフォトグラフス 酒井広司氏



1961年(昭和36年)

植田邸 A」  建築場所 札幌市中央区南14条西17丁目1−31   施工 伊藤組土建  解体年 2007年末頃




木材会社元社長の自邸。
かつて、行啓通を西に進んだ行き止まりに、森に包まれた一町角があった。
閑静な住宅街の中で唐突に現れる森にも驚いてしまうが、通りに面して大きな車も通れる程の門があったから、この奥にはお屋敷があるに違いないと思った。
しかし、門に立って奥を眺めても、鬱蒼とした樹々とカーブした道のせいでお屋敷を見ることがかなわなかった。
試しに裏へ廻って見ると、果たして後姿を拝むことができた。
その時、「いつの日か正面の姿をしかと見てやろう。そしてあわよくば撮影してやろう・・・。」という恐ろしい願いが沸き起こってきた。

さて、久々のライト風デザインである。
十字の平面、大屋根を支えるかのような2本の立派な柱型、玄関上のタリアセン庇が強烈な印象を残すが、田上先生還暦過ぎの作品だからか自分流に味が調えられている。
戦前期のまんまプレイリー風とは違う余裕、前々年にライト先生が亡くなられたことへの鎮魂、そして敬意、のような大いなる落ち着き、静けさが伝わってくる。
この作品で、田上先生はライト先生をやっと客観的に見つめられるようになったのではないだろうか?
そして、迷いを拭い去り、自信を取り戻されたのではないだろうか?
後に続く作品群で、田上先生のオリジナリティが一挙に爆発するのである。

ところで、ライト先生のもとで帝国ホテルの設計スタッフとして働いた田上先生。
田上先生の実務のほとんどは、石の割付、特に大谷石の割付であったそうだ。
いやというほどひたすらに向き合った大谷石。
どうも田上先生は、ライト先生が亡くなられた後に再び大谷石を見つめ、自分の作品に使いだしたようなのだ。
この植田邸Aでも効果的に使われている。

(「新建築」 1963年12月号より)

 正面・居間 (「田上義也建築作品抄=’64」 住宅サロン社1964年より)  裏から 



















「植田邸B」  建築場所 札幌市南区川沿4条   施工 大和工務店  増改築あるも現存


今日、南区の住宅街を走っていたら偶然「植田邸B」を発見した。
どうしても見たい住宅の1つだったので、雄叫びをあげそうになったが何とか自制した。
竣工当時(1961年)、中央では平屋の木造モダン住宅が最先端の格好良さを誇っていた。
田上先生だって、影響を受けずにはおれないだろう。
この住宅に於いて、その北海道バージョンを実現しようとしたのではないかと推測するのである。
深くて薄い軒や分割デザインされた壁面、存在感のあるパーゴラに田上先生らしい個性が強烈に発揮されていた。

     
 竣工当時 1961年  現在 2011年  (北国の住まい6 より)

竣工当時と屋根の形が変わっている。
恐らく、オリジナルの屋根勾配では雪が滑り落ちずにスガモリが発生したのではないだろうか。
新しく勾配をつけた屋根の途中に、換気口が4個見える。
既存屋根の上にわざわざ屋根裏を設けて、屋根面が温まらないようにしているのだろう。
普通はこのような解決策を採らないで、屋根そのものを変更する。
しかし、そうすれば家の外観の印象が全く変わってしまう。
田上建築らしさは、ほとんどわからなくなってしまうであろう。
オーナーと改修を請け負った会社は、既存の建物に最高の愛情を注いでいると感じられる。
歴史的建造物にならずとも、このように住まい続ける人がいる。
私はこの姿勢に敬意を表したい。  2011.9.15




「八雲町庁舎」
  建築場所 八雲町住初町138   施工 森川組  現存

   
 竣工時 1961年 (田上義也建築作品抄 1966年)より  現在 2014年

田上先生は、1961年に折り目正しい鉄筋コンクリート造の八雲町庁舎を設計された。
前年の岩沢邸とも共通する柱と梁の簡潔な構成である。
庁舎建築で鉄筋コンクリートの端正な姿といえば、1958年の丹下先生による香川県庁舎が頭に浮かぶ。

香川県庁舎の後、鉄筋コンクリートの柱と梁を用いて日本の伝統建築の木割りを想起させる手法は、モダニスト達の設計テクニックとして定着した。
田上先生も流れに乗って、ひとまわりも年下の丹下先生のテクニックを使ってみた、と思われる。
しかし、屋上にある塔屋デザインに、目が釘付けとなる。
香川県庁舎のそれに似ている事に気がついたからなのだが、大きすぎず程よい大きさで収まったことに胸をなで下ろした。



八雲町役場は、現在も使われている。
茶色に塗りつぶされたことに、問題はない。
問題は、屋根の形状が変更され、水平ラインも消されたことである。
オリジナルの屋根は上へ広がり大きくなるデザインで、その元ネタはライト先生がタリアセンウェスト時代に生み出したものである。
田上先生は、平和な町民の精神とユウラップ川の流れ、内浦湾の静かな波のリズムをそのデザインに託したのである。
まさか、改修工事にあたって八雲町の「八」を採って屋根デザインを末広がりに変更したのだろうか?

     
参考@ 香川県庁舎の塔屋に注目! (「伝統と創造展」より)  参考A FLライト john・C・Peu邸 1938年  参考B FLライト Rose&Gertrude邸 1939年




「網走市立郷土博物館 増築棟」   
建築場所 網走市桂町1−1−3  施工 不明  現存

 
網走市立郷土博物館本館と増築棟(右側)


網走市立郷土博物館増築棟は、1936年の旧称北見郷土館の隣に開館25周年を記念して1961年に建設された。
しかし、この増築棟のカッコ良さは、本館の高評価に比べてほとんど無視されており、かわいそうである。

本館の完成した1936年と言えば、田上先生ご活躍第1期の終わり頃である。
その頃のデザインスタイルは、網走観光ホテルや十勝川観光ホテルに見られる白い壁面のカクカクモダンである。
それなのに、この本館は白いカクカクモダンを要素としながら、突飛な赤いドームとアーチの屋根が組み合わされている。
それに加えて深い軒、そして胴には極めつきのコンクリートブロックタイルが回っている。
他の田上ファンには怒られるかもしれないが、敢えて言おう、これは混沌、コンフュージョン、いや、カオスである。
いや、カオスは言い過ぎました。
まあ、このようなデザインの方が、確かに深く印象に残るのですね。

ところで、なぜ田上先生はこの建物でコンクリートブロックタイルを使用したのだろうか。

田上先生が帝国ホテルの設計スタッフとして事務所に入った時、ライト先生の作風はプレイリースタイルを離れ、石やタイル、テキスタイルブロックを使用するザラザラゴツゴツ時代の真最中であった。
だから、ライト先生のプレイリー住宅の親しみやすさを期待していた田上先生は、鉄筋コンクリート造に大谷石やスクラッチタイル、テラコッタタイルで装飾していく方法に、戸惑いを感じただろうと思う。
しかし、設計作業に打ち込んでいるうち、ザラザラゴツゴツの魅力にとりつかれたのではないだろうか。

ところが田上先生、札幌でのデビューの武器には、やはりプレイリーデザインを使用して、狙い通りに成功した。
北海道では、習ったばかりのザラザラゴツゴツ住宅をやるよりも、ちょっと時代遅れだがプレイリー風をやった方がいい。
屋根の勾配を急にすれば、雪も落ちるだろう。
しかし本当は、直伝の重みあるザラザラゴツゴツをやってみたい。
こんな葛藤にさいなまれていたのではないだろうか。

そんな折りの1934年、札幌グランドホテルと札幌中央警察署が竣工、ともにスクラッチタイルとテラコッタタイルでお化粧された。
帝国ホテル完成から12年、ザラザラゴツゴツの波が札幌にも押し寄せてきたのである。
「おっと、まずいことになった。これは私が一番に札幌でやらなければならないテクニックだったのに・・・。」
というタイミングで設計のスタートをした北見郷土館。
「結局赤いドームもやることになってしまったし、外壁を存在感のあるコンクリートブロックタイルで仕上げればバランスが取れるだろう。やっと、直伝の技を披露する機会に恵まれたという訳だ。」

本館を見ると、コンクリートブロックタイルの採用理由に、こんな想像を思いめぐらせてしまうのである。
それにしてもザラザラゴツゴツは胴回りのみで、それ以外のタイル仕上げもあるにはあるが、中途半端の感じが否めないのは残念である。
どうせなら、建物全体をコンクリートブロックタイルで埋め尽くしたり、大谷石で飾り付けてほしかった。


で、その25年後に完成した増築棟。
片流れの白い塊の隅が削られて3列の窓が並び、ふかされた壁が溝と共にギュインとせりあがっていく。
その壁の中央に真四角のへっこんだ窓があいている。
単純な形の中に造形チックな複雑さを織り交ぜた、コルビジェ風の味付けも感じる外観。
もしも本館も白いカクカクモダンスタイルで建てられていたなら、この増築棟と素晴らしいハーモニーを奏でたであろう。

しかし玄関廻りには、亡くなったばかりのライト先生を偲んだ大谷石仕上げが施されている。
この部分は、本館のコンクリートブロックタイルと連続した肌触りを感じさせる。
全く田上先生、一筋縄ではまとめさせてくれないのですね。



1960年(昭和35年)

「支笏湖ユースホステル」   建築場所 千歳市支笏湖温泉  施工 菱中組  未活用だが現存


日本ユースホステル協会直営施設第1号のユースホステル建築。
平面は戦前のライト風住宅に多かった十字プラン。
しかし、大胆にも三角のトタン屋根が地面すれすれまで伸びている。
このころより田上先生の設計手法に変化が出始めて、所謂「雪国的造形」が大きな特徴となってくる。

この山小屋風の建物の中心に一番の見所がある。
大きな白い螺旋階段である。
田舎風であるべき建物にモダンな螺旋階段の取り合わせ。
この対比の妙というか、意外性のお遊び感覚も大きな特徴である。










「森吉要邸」
  建築場所 札幌市中央区南16条西   建替済現存せず

某老舗手芸店の元社長自邸。
1998年、「札幌の建築探訪」という本を片手に鴨々川沿いを散歩していた時、偶然この家と出会い圧倒させられた。
さながら、広い芝生の海に碇泊した大型フェリーの様であった。

もちろん、当時は由緒ある住宅だとは判らないから、うっちゃらかしておいた。
しばらくして田上作品と知った時には、既に取壊された後であった。
(「北のまれびと」 現代出版社1977年より)










「小原邸」   建築場所 札幌市中央区双子山1丁目5−44   現存せず


年に1度は、更科源蔵邸がきちんと無事かどうか確認をしに行ってしまう。
その道程、旭山公園通りから双子山へ登る小路を入り、突き当りの曲がり角にあった家である。

もちろん、当時は由緒ある住宅だとは判らないから、うっちゃらかしておいた。
しばらくして田上作品と知った時には、既に取壊された後であった。
(「田上義也建築作品抄=’64」 住宅サロン社1964年より) 













「岩沢 誠邸」   
建築場所 札幌市中央区南32条西10丁目3−15  施工 佐藤工業  現存せず

元北海道弁護士連合会会長をされていた氏の自邸。
RC造で南面に大きく開口しているが、色気が無い。
弁護士の大先生の家だから、威厳性と剛健性を打ち出さなければならない。
だから、こういう外観になるのも仕方ないと思っていたが、こちらに面した壁に「ホクロ窓」が2個写っている事に気が付いた。
田上先生のお茶目心ですな。
階段ホールに小さく光る穴が2個。
唐突なデザインだけに、岩沢先生に御理解頂けたかどうか少し心配になるのです。
(「北のまれびと」 現代出版社1977年より)









「北海道樺太会館」  建築場所 札幌市豊平区豊平5条2丁目5−12  解体日 2009年12月1日頃

北海道樺太会館という建物が田上先生の設計によるものだと知り、記録の為に現地へ向かった。
事前に地図を確認すると、私がたまに利用する裏道沿いにあるらしい。
この建物の辺りは碁盤の目に区画割りされていなく、所謂リバーサイド地区特有の怪しい香りを漂わせている。
だから建物に目が行かなかったのかと、余計な事を考えながら現地入りすると、なんと解体工事が終わろうとしている所だった。

どんな建物だったのか思い出すことも出来ず、写真も見たことがなく、本当に田上先生の作品だったのかどうかも判らないままになってしまった。














1958年(昭和33年)

「高倉 新一郎邸」  建築場所 札幌市中央区北6条西  現存せず 2013年4月19日解体

郷土史家、元北海道大学名誉教授の氏の自邸。
桑園博士町に建つ家だが、この住宅は戦後の住宅なので、あまり注目されず寂しそうである。
2011年、この敷地内に某本州大手ハウスメーカーにより、高倉邸の新築住宅が完成した。
付近に連なる旧宅群を取壊されるのではないかと思いお尋ねすると、今の所その御積りは無いとのこと。

戦後、田上先生が設計活動を再開された初期の作品は、強烈な個性が発揮されていない。
しかし具に見れば、後に爆発する独特のデザインの芽がいろいろと発見できるだろう。
一度、拝見したいものだ。










1957年(昭和32年)

「河邨 文一郎邸」   
建築場所 札幌市中央区南14条西   一部2階とテラスを増築  解体 2013年末頃?

詩人で尚且つ元札幌医大教授という氏の自邸
トワエモアが歌った札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」も氏の作詞による。

ベランダ窓の上には、程よく日光を遮るパーゴラがあった。
どちらが先か後なのか、北海道住宅公社が供給した三角住宅に似ている。
状態の良い公社住宅には、今でもベランダにパーゴラが残っているのを見つけることができる。

どちらが先にデザインしたのだろうか?










「金田一 昌三邸」   建築場所 札幌市中央区南16条西7丁目1  施工 池田工務店  現存せず

旧北海道立図書館館長をされていた氏の自邸。
右の建物は私の父が勤めていた会社の社員寮で、窓の映っている2階の部屋に私も6歳まで住んでいた。
その窓から、体格の良い金田一さんの奥様が、銀髪巻毛の姿でハイヤーに乗り込み、三越や丸井に繰り出す様子を頻繁に目撃した。
私には縁遠い筈のザマス系婦人であったが、大変可愛がって頂いた記憶がある。

悪戯が発覚して母から折檻されそうになると、この家が私の避難場所になった。
追ってきた母を玄関でなだめすかしてもらい、親子共々大いにお世話になった。

このようにして田上先生設計の住宅に親しんでいたとは、妙な因果をしみじみ感じるものである。
(「田上義也建築作品抄=’64」 住宅サロン社1964年より) 









1956年(昭和31年)

「木呂子敏彦邸」  建築場所 札幌市西区山の手3条  施工 不明  現存せず

     
 設計プラン スケッチパース    実際に完成した姿

農業研究者・教育者・アイヌ研究者・お役人等、様々な肩書きで知られた木呂子氏。
札幌市教育員会に勤められていた時は、田上先生と共に新しい学校校舎のあり方を考えられたと伝えられている。
また、ユースホステル普及に尽力され、恐らく、田上先生を施設設計者へ推薦したパイプ役になられたのではないだろうか。
当時、復帰されたばかりの田上先生にとって、木呂子氏と北海道銀行の島本頭取は頼るべき大きな2本柱だったに違いない。

そのような木呂子氏が山の手に建てた住宅である。
半円形の屋根で北面を閉ざし、南面に窓を並べてメリハリのついた姿が特徴である。
いつも忙しい木呂子氏は、雪下ろしをしないで済む要望をこの屋根の形状に託したのであろう。
この半円屋根の下に生まれたスペースは、大きな収納として活用することで各室から押入れを無くすことに役立った。
思い切って和室をも無くし、すべてフローリングの床仕上げにベッドでの寝起きを決断された。
勝手口の無い台所には男女同権の空気が流れ、今までの古い生活にオサラバした新しい現代生活を期待させる。
さらには、トイレの上にドラム缶を仕込んでモーターで揚水し、その水を水洗に活用するという実験も行っている。

徹底的な合理と先取の精神で計画されたそんな木呂子邸に1つだけ謎がある。
1964年の田上義也建築作品抄に掲載されている木呂子邸が、スケッチパースのみで竣工写真が載っていなかったのである。
昔の北海道新聞の「お住まい拝見コーナー」に掲載されていた写真を探し当て、その意味がやっと分かった。
設計プランと実施した写真を見比べると、1階のテラス窓が腰窓で納まり、そして2階のバルコニーが無くなっている。
残念ですが、恐らく、予算の問題だったのでしょう。

     
 ペチカを通して居間、洋間 (カーテンで部屋間仕切り)  ペチカで煮炊きできる台所  はめころし窓の脇は外開きが可能な2重窓!

スケッチパース (「田上義也建築作品抄=’64」 住宅サロン社1964年より) 
それ以外のモノクロ写真  (北海道新聞 昭和35年2月21日 より)




「阿寒湖畔小学校(まりも校舎)」   建築場所 阿寒町字阿寒湖畔   施工 五十嵐建設  解体年 2000年

この校舎が完成する前年、世界で初めてとなる円形校舎が東京に完成した。
良いタイミングでの阿寒湖畔小学校の設計依頼。
そのデザインをこの学校に採用すれば、マリモに見立てることができる。
この後、全国に円形校舎が流行したが、児童数の激増に対応できない形の為、ほとんどの校舎の寿命は短かったらしい。
しかし、北のはずれのこの校舎は、地域と共に長生きができた。

ところで田上先生は、壁も緑色に塗る検討をされたであろうか?
もし実現していたら、多少気持ち悪いが、バツグンのインパクトだったに違いない。

2002年に再訪問してみると、解体されて跡形も無くなっていた。










「更科 源蔵邸」   建築場所 札幌市中央区双子山  茶色部分を増築し、現存

詩人・郷土史家・アイヌ研究家という肩書きを持つ氏の自邸。
戦前・戦後、貧乏で苦労したという自叙伝の中にこの家のエピソードがある。
友人だった金田一昌三氏が館長をしている北海道立図書館(現 道立文書館)に出入りしているうちに、田上義也氏と出会って意気投合。
高倉新一郎氏には、双子山に所有する土地を貸すから家を建てれば良いじゃないかと言ってもらう。
2人との出会いがあって、この家が建ったと伝えられている。
お金が足りなくて、引っ越した時にはまだ窓ガラスが入ってなかったという。

しかし、このブロック造の家、当時は木造よりも高かった筈である。
あの貧乏話は、謙遜だったのか、はたまた誇張だったのか?













「違星北斗の歌碑」  建築場所 平取町二風谷 二風谷小学校校庭  現存

田上先生、師匠ライト先生による1948年の最新作ハーバート・ジェイコブス邸を見て、唸っただろう。
家の半分が土に埋まっており、入り口にはトンネルのような穴ををくぐって行くという外観である。
北海道で住宅を土に埋めることは難しいが、何かこのような神聖な雰囲気を持たせてあげられるような案件があれば、応用してみたいと思われたのではないだろうか?

ハーバート・ジェイコブス邸

そんな折り、木呂子敏彦氏より違星北斗さんの歌碑を二風谷小学校の開校記念につくりたいと相談を受けられた。
アイヌ人の貧困や差別から立ち上がるべく歌人としても活躍し、惜しくも29歳の若さで亡くなった彼の歌碑に、この土に埋まった入り口が思い浮かんできたのではないだろうか?

   
 ハーバート・ジェイコブス邸 入口詳細  違星北斗の歌碑

現在見ることのできる歌碑は、1968年に二風谷小学校新築移転に伴って移設された姿である。
だから、元々の歌碑が頭まで土に埋まっていたのか、そもそも盛土に埋まっていたかどうかもわからない。
どちらにせよ、このように土に埋まった塚のようなデザインは、成功しているように見える。

   
 正面の碑面  背面の説明書き

昔話によると、一部の違星北斗のことをよく思わない二風谷住人が碑面の設置に反対したとのこと。
碑面は1968年の移設時にやっとはまったとのことであるが、それまでの12年間、何もないトンネルの状態だった!
つまり、この碑の外観はハーバート・ジェイコブス邸の入り口そのまんまの様子だったということだ。




「北日本自動車学園」 建築場所 札幌市中央区南11条西1丁目  施工 不明  現存せず

 

実を言うと、私の運転免許は、この自動車学校で取得させてもらった。
ただし、この校舎の記憶があるかどうかを問われれば、情けないことにほとんど思い出すことができない。
1990年に取得したので、校舎建設から34年経過していることからして、ひょっとすると建替えされていたかもしれないし、この校舎だったかもしれない。
授業は2階の教室で受け、実施教習は1階で待ち時間をつぶしていたはずなのだが、古ぼけた建物だったように感じていた気がしないでもない。

豊平川の河川敷に教習コースをもった自動車学校が2つあって、私は大学の空き時間に通うのに便利なこちらの学校を選んだ。
生徒たちはこの自動車学校を略して「北自」と呼んでいた。
校舎の3階部分隅に校章のようなものがついている。
目を細めると、「北」と「自」の字体が重なった「北自」と読める。
田上先生のロゴも「田」と「上」を被せた文字デザインであり、この「北自」マークのデザインも田上先生の仕事ではないだろうか。
丸井今井の「○井」のマークのようで、建物が百貨店のようにも見えてくる。

田上先生のロゴデザイン

後日談
「お前何言ってんだ。俺たちが行ってたのは「札自」だろうが。」
同じ大学に通っていた友人が言うには、ちょっと遠くて人気のない方に行った方が早く免許が取れるのではないかという計算をしたというのである。
だから、南7条の河川敷に教習コースのあった札幌自動車学園、すなわち「札自」を選んだと。
全く私の記憶というものは、ちっとも当てにならないものである。

モノクロ画像(「札幌・小樽地方版 電話番号簿」 昭和37年8月1日発行より)



1955年(昭和30年)


「帯広厚生病院」  建築場所 帯広市西6条南8丁目   施工 朝日工業   1980年7月解体 現存せず

   
 円形の外観  中庭へのキャンティー斜路  (田上義也建築作品抄 1966年)より 

田上先生は、戦後の1951年に建築設計の再出発をされた。
様々な新しい建築情報の中でも、やはりライト先生の動向を気にされていたのではないだろうか?
だとすれば、1943年から計画がスタートしたグッゲンハイム美術館のスケッチ案も見られていたに違いない。

円形の外観を持つこの帯広厚生病院は、1階よりも2階が張りだしている。
当時の北海道の建物は、雨や雪害から外壁を守るため、このように上階を大きくして水切りを良くするのは基本的な事だったようだ。
だから、この病院と上階が大きくなる逆らせん形のグッゲンハイム美術館が似ているのではないかという疑いは、偶然の出来事であり、私のほんの思い過ごしな筈であった。

   
 グッゲンハイム美術館  キャンティーの展示斜路  (トリップアドバイザーHPより)

しかし、建物内側の中庭へ下りていく斜路はどうだろう。
幅3mのキャンティレバーが、ふんばっているではないか。
そしてもちろん、グッゲンハイムのらせん斜路もキャンティーレバーである。
この斜路に入院患者を癒す為の絵が飾られていたかどうかは、わからない。
けれども、もうこれで、2つの恐るべき共通性が確認された。

1955年に完成した帯広厚生病院は、師のアイデアを拝借しておきながら、本家より4年早くこの世に生まれてしまった問題作であったのだ。



1951年(昭和26年)

「北1条教会増築・改修」   建築場所 札幌市中央区北1条西6丁目   現存せず

元々の北1条教会は、1927年、つまり田上先生が28歳の時に建てられたものである。
それから24年経過した1951年、戦後に再出発されたばかりの田上先生へ増築・改修工事の設計依頼がされた。
その後、解体される1979年までの28年、一般市民にとっての北1条教会の姿とは増築・改修工事後のこの姿だったのではないだろうか?

改修後の外観の方がカクカクと彫りが深く、カッコ良い。
1927年からこの姿で建っていますと言われても、頷いてしまいそうなデザインだと思う。

     
 竣工時の姿 1927年    増築・改修後 1952年  (歩道に花台がある!)

旧新の写真を比べてみると、大きな増築・改修点は、元々2か所あった玄関を覆うように増築された所が1つ。
もう1つは、屋根材が瓦棒葺きから菱葺きのデザインに変更されている点である。
恐らく、玄関から出入りする度に寒い風が会堂に入ったのであろう。
寒さを防ぐための風除室機能を期待したこと、屋根は痛んだための交換であろうと思う。
そしてもう一つは、東側に日曜学校棟、南側に牧師館の増築がされたことである。



増築部拡大



会堂から渡り廊下で繋がった東側の日曜学校棟、そしてその南側へ牧師館があったらしい。
私は、牧師館がどんなデザインだったのか知らず、日曜学校棟もこの写真のみでしか知らない。


さて、柱型を連続させた顔にさせてある日曜学校棟。
1979年に完成した新しい北1条教会は、このデザインを発展させたのではないかと思われてくる。
正直に言うと、今まで新北1条教会をどのように見たらよいかわからなかった。
しかし、田上先生80歳に手がけたおそらく最後の渾身の作品。
自分の設計人生の歴史をあの建築につめこんだとしても不思議ではない。

作品群を通して田上先生の人生を想像すれば、きっとそのような境地に至られていたのではないかと思われる。
80歳の男の気持ちになって、あの建物の前に立てば、きっと田上先生の心の中が少しは見えてくるのではないだろうか。



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